最近いい加減になって来たので自戒したいと思うことについて

大学に入りたての頃の僕はイキリまくっていた。

大抵の大学生はワザとお酒にのめりこんだり堕落した生活をして

親から離れた解放感に浸り楽しむものだが

僕は少数派なのでそれとは違う方向にグレた。

 

僕はつまり、この世の快楽をことごとく拒絶して学業に励むタイプだったのだ。

堕落した生活を送る周囲の人たちを厳しく批判的に眺め

偉そうに範を垂れ、道を説くようなタイプだったのだ。

課題の提出や出席についても厳格で

遅刻したり授業をさぼったり課題の提出が遅れるような奴はケチョンケチョンに批判したものだ。

(まぁ結局僕も青かったんだね)

 

しかし最近の僕は平気で遅刻するし

最前列のど真ん中で先生の目前で居眠りをする。

せっかく一生懸命話している先生に失礼極まりないし

良い話ををしているのに聞いてもらえない先生はさぞ悲しいだろうと思う。

課題もギリギリになって適当なものを提出している。

かつては学年一位だった成績も下がる一方である。

 

こんなはずじゃなかったのに。

自分に過剰に厳しくして自分をいじめる必要はさらさらないが

もっと自分のことをちゃんとした人にしてあげたい。

 

最近の僕は妙に自己肯定感が育っているしまた他人にも寛容になれている。

かつて自分にも他人にも厳しくしていたので

もっとありのままの自分や他人や世界を愛して楽しみたいと思ったのだ。

 

しかし「過ぎたるは及ばざるが如し」である。

ありのままの自分を肯定する気持ちが育つあまり

「まぁいいじゃないか」と自分に甘くなり過ぎてしまった。

「遅刻したっていいじゃないか」「課題が手抜きでもいいじゃないか」「クズ人間でもいいじゃないか」などなど

ありとあらゆるものを肯定するようになったのだ。

そのおかげで僕はどんどん弛んでしまった。 

 

今のままの自分でも十分価値があるが

そんな自分にもっとプラスアルファいろいろな付加価値を与えてもいいんじゃないか?と

自分を説得してなんとか全うな人間になろうとしている。

しかし今日も大した活動はしない。 

 

取り敢えず色々気を引き締めて学問に励むぞい!!

 中国茶に夢中になってしまったことについて

今年(2019)の5月には大学のプログラムに参加して中国へ行った。

そこで中国茶の茶葉屋さんに行くと

店主は茶芸を披露してくれて何種類ものお茶を振る舞ってくれた。

そして僕は茶葉を何種類か買ってきた。

 

中国茶葉は発酵度合いとか製法とか使った茶葉の品種などにより多くの種類がある。

白茶、黄茶青茶、緑茶、紅茶…などなど虹の七色を網羅できるくらい豊富な種類がある。

日本人は自国のお茶文化に誇りを持っているだろうが

日本のお茶文化など中国のお茶文化の前でははっきり言って霞むほど中国の茶文化は豊からしい。

 

僕は中国茶にすっかり魅了されてしまい

中国で買ってきた茶葉をちびちび使いながら中国茶を愛飲している。

香りは安らぎを与えてくれるし飲んでみると美味しいのだ。

買ってきた茶葉は着実に減っていくが美味しいから仕方ない。

そして中国茶は僕の生活の一部にしっかりと取りこまれてしまった。

素晴らしい生活習慣を得られて本当に良かった。

 

そして僕は中国茶および茶芸を極めたいと思っている。

茶葉や道具もたくさん欲しいし淹れ方の技術も身につけたい。

また発酵や製法についての知識も身に着けたい。

それから中国の茶葉栽培技術とか農村経済や農村社会、少数民族の文化や彼らが抱える問題、中国茶葉の経済まで中国茶を通して幅広く知りたいと思っている。

 

しかしやりたいとは思って公言していても

時間がないのなんのと言い訳をして何にもやっていない。

今だって中国茶をちびちび飲みながらこのブログに駄文を書きなぐっているのだ。

「やりたいやりたい」ばかり言っていないでさっさとやればいいのだ。

本当はやる気なんてないのかな?

 

嗚呼…このプーアル茶美味しいなぁ。

 

 

 僕が理系なのに俳句を始めた理由について

物理学においては自然現象から本質的な部分を抽出してシンプルなモデルを立てたりする。

また、基本方程式を立ててそれを解いていくと豊かな理論の世界が広がっていて

その結果は単なる思考の産物ではなく

最初は知らなかったような自然現象とピタリと一致したりするのだ。

 

物理学をやっていく上では自然現象を数学を駆使して記述し理論を展開していく。

自然現象から枝葉の部分を取り除いて普遍的・本質的な部分を抽出して統一的に説明することを目指すのだ。

 

しかし、僕はそれだけでは不十分だと思ったのだ。

例えば人体の骨格標本を持ってきて「これは人間です」と言われても

「ああこれが人間なのですね」とはなかなか思えないのだ。

それは人体の骨格なのであって人間そのものではないのだ。

 

人間には骨には腱がついていて筋肉があって皮下脂肪があって皮膚があって髪の毛が生えていて

頭蓋骨の中には脳がはいっていていろいろ思考するし

お腹が空いたらご飯を食べるし眠くなったりご機嫌が斜めになったりするし

泣いたり笑ったり歌ったり踊ったり冬にはスノボをしたりするのだ。

 

骨だけでは人間の一部でしかないのだ。

自然だって枝葉を取り除いた本質だけ持ってきて「これは自然です」と言われても

「ああこれが自然なのですね」とは思えないのだ。

本質を抽出する過程で取り除かれた大した重要性もない表面的な揺らぎとか時間にともなう変化とかそうした部分も自然の大切な一部だと思うのだ。

 

季節の移り変わりや一日の中で変わる日の当たり方や

植物の成長過程や葉が持つ表情のちがいがあるし。

温度や湿度が変わると植物が元気になったり色の見え方もわずかに変わる気がするのだ。

花が咲いたりモミジが色づいたりするとそれにともなって特別な感情が起こったりするのだ。

(おいおい「自然」が指すものがいつの間にか物理が対象にするものからズレてるぞ)

 

何というか自然を見つめる上でそういう要素も取り込みたかったのだ。

数式だけでは表現しきれない部分も自然言語を使って表現したかったのだ。

 

という訳で僕は俳句をやっている。

まだまだ全然上手くないけど楽しくやれている。

 

最近は気温がガクっと下がって霰が降ったりしている外に出ると寒さが頬に染みる。

この雰囲気も美しいものだ。

これで何か一句読めないかな?

えーっとうーん…そのー…まあそうだねぇ…

 

「人生の岐路に立つ標識」について

僕が好きなアーティストの一人に宇多田ヒカルがいる。

彼女の作品の「道」の歌詞には「人生の岐路に立つ標識はありゃせぬ」というのがある。

 

それはそうだろう。

僕らが人生の岐路に立つときにはきっと就職がどうとか結婚がどうとか

大きな意思決定をしていることだろう。

 

しかしそうした状況で「こちらがあなたにとって最善の選択ですよ~」なんて指し示せる能力を持った人なんていないだろう。

スーパーコンピュータでも東京大学の経済学の教授でも

将来の経済情勢とか雇用情勢なんて予測はできないだろう。

僕らの人生の岐路はそこらへんに居る人に図書館へ行く方法を聞くのとはわけが違うのだ。

他人に幸せを与える能力を持った人なんていないのだ。

 

また仮に自分の大学の学長とかが「この道に進めば君の未来は保証されている~」とか

どこかの教祖さまが「あなたは私が示した道を進めば幸せになれる~」などと宣っても

それを本気にしてついて行く人など滅多にいないだろう。

そんなことをいう人がいたら大抵のひとは警戒するだろう。

 

人生の岐路に立つ標識なんて要らないのだ。

ほっといてくれ自分で決めるから。

 

この個所を聞いているとこのことを考えてしまうのでそのあとに続くサビがぜんぜん頭に入ってこない。

こうして考えを吐き出したらすっきりした頭であの曲を聞けるだろうか?

高校の数学教員や物理学教員になるという選択について

僕は大学では物理学のようなことを勉強していて

まわりに人たちも大抵そうである。

 

そして彼らも高校の頃には高校で理数系に所属していて

数学や理科の教員の下でゴリゴリ数学や物理を勉強してきたのだ。

 

そんな僕たちも大学3年生になり色々と進路のことが話題に上るようになってきた。

理系学生の多くは院に進むので就職なんてまだ先のこと、という風潮があるが

やはりみんな無関心ではいられない。

 

数学や物理学系の学部は別名「就職無理学部」と言われるほど就職先がないと言われている。

そんな中で多くの同級生は高校や中学の教員になるために教職コースをせっせと取っている。

とりあえず公務員だから安泰だし、大学で勉強した内容を他に活かしようがないからである。

 

しかし彼らも高校の頃は教員から数学や物理を教わり、そんな彼らはまた教員となって次世代に数学や物理を教えるというサイクルに僕は疑問を覚える。

 

何というか、よくあるマルチ商法や中世の錬金術師のビジネスモデルを見ているような気になるのだ。

マルチ商法は「これを他の人に売れば儲かるから」といって実際は儲かりもしない商材を延々と売り続けるビジネスモデルだし

中世の錬金術師は一向に黄金も賢者の石も連成できないのに

「これが成功すれば一攫千金だ」との信仰のもと

錬金術の師匠たちは弟子から月謝をもらってお金を稼いでいたそうな。

 

さながら彼らのやっていることが土地が値上がりし続けるといういわゆる「土地神話」のもと

銀行から金を借りまくり際限なく土地を転がしていた不動産バブルと似た状況にあるようにも思える。

(もっとも数学や物理なんてちっとも儲からないが、仕組みに共通性があると言いたいのだ。)

「基礎科学はいつかは役に立つ」というのが土地神話と同じように機能して

実態のない知識を際限なく前の世代から次の世代へ

そしてその次の世代へと転がしているように見えるのだ。

 

実態のないものをそんな風に転がし続けてもいつかは破綻するだろう。

もちろん科学は役に立っているし

当たる確率の低いクジだとしても次世代を育成しその中から次の時代の科学を担う人物を見つけ出すことは必要だしその母集団を大きく作っておくことは必要だろう。

また中学や高校の教員だって社会と次世代の子供たちにとって必要な存在だ。

それに大学で物理や数学を勉強した人たちの中には

直接生産活動に貢献したり人類の生活を豊かにする発見をする研究者たちになったりもしている。

 

しかし僕としては科学であれなんであれ

つねにそれにエンドユーザーのような具体的人物が存在して

その人たちの利便性や満足に貢献しないものには意味を見出せないのだ。

満足、というのは「数学やってて楽しい」とか「物理学は面白い」でもいいし

エンドユーザーの満足や利便性が実現されるのが100年後であっても500年後であっても構わないのだが

とにかくエンドユーザーの利便性や満足が実現される必要があると思うのだ。

それがない営みが宙ぶらりんで営まれていても空しく感じるのだ。

 

でも知性や知識にはそれ自体で価値があるかもしれない。

 

まあいいだろうこの世の中に無駄なものが存在してはいけない訳でもあるまい。

無意味に過ごす時間が一番楽しかったりするし

教員になる人を再生産するサイクルが本当に無意味かどうかなんて追及する必要はないと思う。

無意味でもいいのだ、無駄でもいいのだ。

 

最近の僕は無意味なものにすら寛容になることが出来る。

ストレスを減らせるいい心構えだと思う。

笑い方を忘れてしまったことについて

僕はいわゆる「陽キャ」になりたい。

多くの仲間とともに楽しく笑って過ごしたい。

 

しかし僕にはそれもできない。

僕は何をしても楽しむことができない。

お酒を飲んでも酔いはするが楽しくない。

今もお笑い動画を見ているのだが動画中のお客さんが笑っていることろでも

僕はクスリともしない。

 

色々調べると疲労が蓄積しているときにこんな風になるらしい。

それはさておき僕は真面目すぎたのだと思う。

趣味もこれと言って持っていないし、何か夢中になれることもない。

何にも楽しいことがないのだ。

 

こんな風にブスっとした人と一緒にいても他の人も楽しくないだろうと思う。

僕に深いつきあいの友達がいないのも楽しみを共有できないこと

共有する楽しみがないこと

他に人が楽しんでいる状況で僕がつまらなそうにしていることにあるのではないかと思う。

それにつけても楽しいことを見いだせない人生は僕自身にとって不幸なものだ。

友達が面白いからと進めてくれた動画、

車の中で見せてもらった時にはあんなに笑えた動画にも

今の僕はクスリともしない。

動画は僕の耳を上滑りして流れ去っていく。

 

笑うことは抗がん作用を持ち、幸福度を高め抵抗力を上げ認知症リスクを下げる効果があるという。

 

 

こんなつまらない人生はもうたくさんだ。

笑いたい、思いっきり笑いたい。

 

僕の降誕節2019にあたり皇族の会見風にお気持ち表明するお言葉。

この度、わたくしの降誕節2019に当たりまして多くの方々からお祝いを頂いたことを深く感謝いたします。

 

また各地では昨年に続き多くの方が台風や地震などの災害に遭われ、多大な苦しみを感じていらっしゃることに、わたくしは誠に心を痛めております。

被災者の皆様が少しでも早く、元通りの平和な生活に戻られることを、わたくしは切に願っています。

 

昨今の極東アジア情勢には憂慮すべき点が多々ございます。古くからの友人である中国や北朝鮮との外交関係の悪化はまことに嘆かわしいことです。関係各方面に置かれましては日本、極東アジア、ならびに世界の平和を実現できるよう、これまで同様に、これまでにも増して外交努力を重ねていただきたく思います。

 

近年、地球温暖化などの環境問題は非常に危険な状態にあると思います。そんな中で最近、スウェーデンの少女グレタさんの国連でのスピーチが大きな話題となりました。

あの演説にたいしては単なるパフォーマンスだなどの批判的な意見もあるかと思いますが、そうしたことは別として彼女のように若い人たちが環境問題を真剣に考え行動をとり始めている現状は、世界にとって、この時代にとって、人類の未来にとって誠に喜ばしいことと思います。

 

来年2020年には東京でオリンピックが開催されます。

日本各地からそして世界中から多くの人が、オリンピックを楽しみにして東京を訪れることが予想されます。

わたくしも、東京や皇居の周りが多くの人で賑わうのを今から楽しみにしておりますが、それにあたり多くの財政上、運営上の問題が浮かび上がっているように思います。

選手の皆様や観客の方々が無事にオリンピックを終えられるよう、世界中の人をがっかりさせないよう、関係各位にはなお一層の努力をしていただくよう、わたくしは望んでおります。

 

振り返ってみるとこの一年も多くの方々のお世話を被り、平穏に充実した日々を過ごすことが出来たと思います。

 

まず大学での学業についてお話いたします。

先生方の授業内容はますます難しくなってはいますがとても興味深いものであり、わたくしの自然科学への興味を絶えず駆り立てて更新してくれています。

授業が進むにつれてさらに奥深くなっていく科学の世界に圧倒されると同時に魅了され、学修を重ねれば重ねるほど探求したいという気持ちが強まります。

複雑な計算や細かなプログラミングのために苦労することはございますが、いずれその苦労も報われると信じてなんとか学業を続けております。

 

わたくしの主な専攻は物理学系統ですが、ご存知の方もいるかとは思いますが、それとは別に中国語の学習もしています。

中国はすでに日本を追い抜き世界第二の経済大国にまでなっています。経済力軍事力外交力文化力など多方面で中国が持つ世界に対する影響力は日に日に高まっています。

そうした状況の中でわたくしは、中国語を習得することならびに中国の社会や文化を理解することが国際社会を生き抜く上で大きな重要性を持つと考え、中国語を勉強することにいたしました。

一見したら日本と同じ漢字なのに中国語では意味が違うということが多々あり、また中国語の発音は日本語にはないものも多く複雑であり、先生方が課題として出す文献も分量が多く、なにかと苦労することもあります。

しかしながら一緒に勉強する文系の友人や、応援してくれる人たちの励ましもあって何とか学修を続けられています。

来る12月にはHSKという中国語の語学試験がありますが、わたくしの直近の目標はHSKの4級に合格することです。まだまだ課題は山積みですが、何とかこの目標に到達できるようさらなる努力を重ねてまいります。

 

大学では素晴らしい学友に恵まれていると思います。

私は大学に入学した時、何人かの同級生の発表や議論を聞いて

初めて本物の天才をこの目で見た気がする、と思ったことを覚えています。

彼らはすでに才能がある上に大変な努力家であり、彼らの様子を見るといつでも自分も頑張ろうという気持ちになります。

今年のハロウィンにあたっては仮装をして大学に登校し普通に授業を受けるという冒険をしました。

残念なことにわたくしの大学ではハロウィンに仮装して登校する習慣はまだあまり根付いておらず、仮装して登校する人はごくわずかしかいませんでした。

しかし仮装して学内を練り歩き多くの人の注目を集めるとこはとても楽しく刺激的でした。

この時も一緒に仮装して練り歩いてくれる友人がいてくれて、とても楽しいハロウィンを過ごすことができました。

実はまだ秘密なのですが、クリスマスにも何か面白いことをやろうと考えています。

みなを驚かすために内容は当日まで非公開ですが、ぜひ楽しみにしていてください。

 

昨年末から今年にかけての冬には長野県の野沢温泉スキー場や福島県のたかつえスキー場に滞在しました。

わたくしはこのシーズンに初めてスノーボードで滑るという経験をしました。

今更になって初めて出来るようになるものか、上達するだろうかと初めは不安でしたが、何度も何度も転んでいるうちに徐々に滑れるようになりました。

初めはスピードを出すのが怖くて、ゆっくりとしか滑れませんでしたが、徐々に恐怖心を克服しスピードを出すことが出来るようになりました。

スキー場でたまたま出会って友達になった人たちと、一緒に滑ったりゲレンデの食堂で食事をしたりと、本当に楽しく過ごすことができました。

そしてわたくしはスノーボードにすっかり夢中になってしまい、おそらく今後は冬が訪れるたびにゲレンデへ行きスノーボードをする未来が待っていることと思います。

それとともに、これまで経験したことのない事に挑む勇気や、いかにして恐怖心を克服するか、また不必要な恐怖心がいかに不自由を与えるかを、こうした経験から学んだように思います。

 

春休みの後半には大学のプロジェクトに参加し一週間アメリカを訪問しました。費用のすべてが国費で賄われるという大変気前の良いプロジェクトでした。

アメリカは留学先として人気が高いためプログラムへの応募者も多く、選考も厳しいものでした。

しかしわたくしは何とかその選考を通過し晴れてアメリカへ行くことが出来ました。

アメリカでは日本とアメリカの経済力の差を目の当たりにしました。

ワシントンDCのスミソニアン博物館ではレオナルドダヴィンチやフェルメールの絵画の実物などの世界的な名画を数多くこの目で直接見ることができました。

日本の美術館とは質、量ともに桁違いの作品に圧倒的な違いを感じました。

また大理石の建物もどれも巨大で圧倒されました。

しかしそれでも私たちが見たのはほんの一部でした。

そして何よりも思ったのが、これらはすべて後の時代になってから外国から購入して集めた物なのだということです。

ヨーロッパや日本の美術館に展示されている作品は多くは古くから自国に伝わっている物ですが

スミソニアン博物館の収蔵品は資産家がヨーロッパやそのほか諸外国から購入し集め、のちに国家に寄贈されたものだということです。

アメリカのビル群、ホテルやレストランや商業施設などすべてが大きく豪華でした。

またアメリカの大学を訪問した際には現地の学生と交流し、アメリカの大学生活について様々な話を聞きました。

アメリカの授業料は日本とは比べ物にならないくらい高額なのですが

それと同時に成績優秀者や家計事情によっては様々な奨学金を得ることが出来るようシステムが整備されており

頑張れば頑張るほど報われる経済システムが整っていると感じました。

アメリカの学生が非常に優秀であるとすれば、それはこうやってやる気を引き出す社会のシステムが整っているからなのだろうと思いました。

 

続く5月のゴールデンウィークには同様に大学のプログラムに参加し中国の大連を1週間訪問しました。

中国の協定大学創立70周年記念行事に参加したのですが、こちらでも得難い経験が出来ました。

現地では大連市内をよく散策しましたが、従来の発展途上国というイメージが全く過去のものであることを知りました。

市内には高層ビルがいくつもどこまでも立ち並び、街はとても賑わっていました。

道路の舗装などはまだでこぼこしたところはありましたがそこは十分に大都市と呼べる所でした。

商業施設は建物も大きく商品も充実していました。

また特に印象に残ったのはわたくしが片言の中国語でお店の方に話しかけますと、

お店の方はスマートフォンの翻訳機能やメモ用紙を駆使してなんとか外国人であるわたくしとコミュニケーションを取ろうとしてくれたことです。

日本で英語を学習する人たちの中には間違えることを恥ずかしがってあまり話さない人がいますが、彼らはそうした人たちとは全く異なっていました。

言葉はコミュニケーションの道具なのだから伝わればいい、美しくなくていいという合理的な姿勢ならびに

なんとかしてコミュニケーションを取ろうとする意欲や野心と言ったものを感じさせてくれました。

こうしたことも新興国の若さと意欲とエネルギーの表れであると感じました。

わたくしはこうしたことから今後の中国のさらなる発展を確信いたしました。

 

またわたくしはこの中国訪問で中国茶との出会いを果たしました。

かねてから本などで読んで中国茶の奥深さに興味をもっていました。

発酵度の違い、多種多様なお茶の種類など奥深い世界が広がっているのを何となく知っていました。

しかし現地の茶葉屋さんを訪れ、現地の店主の方が茶芸を披露し中国茶の試飲をさせてくださった結果、わたくしは中国茶にすっかり魅了されてしまいました。

わたくしはなけなしのお金をはたき何種類もの茶葉を買いました。

わたしはそれをいつも飲んでいます。

ぜひ日本の皆様にも中国茶の良さを知っていただき中国茶を飲む文化を広めたいと思います。

今回の旅では予定も立てずに大連の街のあちこちへ出かけるという冒険をしました。

その時も一緒に行ってくれてどんなに歩いても行った先に何もなくてもそのプロセスまで楽しんでくれる友人がいてくれたのでとても楽しく過ごすことができました。

また言葉も通じぬ見知らぬ国の見知らぬ街でたいした地図もなく歩き回るという冒険をすることで勇気や行動力を養うことができたように思います。

なによりも記念すべき行事で協定校から代表団の一員として派遣されるという経験はとても名誉なものでした。

 

冒険と言えば、最近は色々と新しいことにチャレンジするようにしています。

最近では市場で丸ごとの鯵を購入し、自分で三枚におろして刺身にするという小さなチャレンジをしました。

また同じく市場で購入した小鯛を丸ごと炊飯器に入れて作る鯛めし作りにも挑戦しました。

他にもお好み焼きやパエリア、オーブン焼きなどの料理にも挑戦し経験の幅を広げるようにしています。

 

かつてのわたくしにはさまざまな経験が不足していました。

普通の人たちが普通に経験しているはずのことすら欠けていました。

しかしそうしたことも徐々に埋められてゆき、心のバランスも徐々に整ってきたように思います。

 

長々と書いてきたが

そろそろしんどくなってきたので適当に書き流す。

まあ今年も色々あって楽しかった。

 

あと自分の見た目劣化や老いが急速に進んでいるのを感じる。

行動が遅い、楽しめない、お酒飲んだりごはんを食べるとき健康への配慮が勝つ、映画とか面白くない、夜更かししたくない、肌がぼろぼろ、肌の張りがない、目元とか顔のパーツや輪郭がぼやけてきた、手がカサカサしわしわ血管が浮いていてつまりは手肌老化が進んだ、体力低下、思考力低下、聴力低下最近人の言うことを聞き取れずに聞き返すことが増えた、他人の言うことを頭ごなしに突っぱねるようになった心の硬直が進んだ心老化が進んだ、目の下がたるんだ、髪が少なくハリとコシがなくなった、お洒落に興味がなくなった、みんあが楽しんでいるものが楽しくない、ちょっとランニングしただけで膝関節が痛くなる。ジャンクフードがおいしくない、要するにもう老人。