高校の数学教員や物理学教員になるという選択について

僕は大学では物理学のようなことを勉強していて

まわりに人たちも大抵そうである。

 

そして彼らも高校の頃には高校で理数系に所属していて

数学や理科の教員の下でゴリゴリ数学や物理を勉強してきたのだ。

 

そんな僕たちも大学3年生になり色々と進路のことが話題に上るようになってきた。

理系学生の多くは院に進むので就職なんてまだ先のこと、という風潮があるが

やはりみんな無関心ではいられない。

 

数学や物理学系の学部は別名「就職無理学部」と言われるほど就職先がないと言われている。

そんな中で多くの同級生は高校や中学の教員になるために教職コースをせっせと取っている。

とりあえず公務員だから安泰だし、大学で勉強した内容を他に活かしようがないからである。

 

しかし彼らも高校の頃は教員から数学や物理を教わり、そんな彼らはまた教員となって次世代に数学や物理を教えるというサイクルに僕は疑問を覚える。

 

何というか、よくあるマルチ商法や中世の錬金術師のビジネスモデルを見ているような気になるのだ。

マルチ商法は「これを他の人に売れば儲かるから」といって実際は儲かりもしない商材を延々と売り続けるビジネスモデルだし

中世の錬金術師は一向に黄金も賢者の石も連成できないのに

「これが成功すれば一攫千金だ」との信仰のもと

錬金術の師匠たちは弟子から月謝をもらってお金を稼いでいたそうな。

 

さながら彼らのやっていることが土地が値上がりし続けるといういわゆる「土地神話」のもと

銀行から金を借りまくり際限なく土地を転がしていた不動産バブルと似た状況にあるようにも思える。

(もっとも数学や物理なんてちっとも儲からないが、仕組みに共通性があると言いたいのだ。)

「基礎科学はいつかは役に立つ」というのが土地神話と同じように機能して

実態のない知識を際限なく前の世代から次の世代へ

そしてその次の世代へと転がしているように見えるのだ。

 

実態のないものをそんな風に転がし続けてもいつかは破綻するだろう。

もちろん科学は役に立っているし

当たる確率の低いクジだとしても次世代を育成しその中から次の時代の科学を担う人物を見つけ出すことは必要だしその母集団を大きく作っておくことは必要だろう。

また中学や高校の教員だって社会と次世代の子供たちにとって必要な存在だ。

それに大学で物理や数学を勉強した人たちの中には

直接生産活動に貢献したり人類の生活を豊かにする発見をする研究者たちになったりもしている。

 

しかし僕としては科学であれなんであれ

つねにそれにエンドユーザーのような具体的人物が存在して

その人たちの利便性や満足に貢献しないものには意味を見出せないのだ。

満足、というのは「数学やってて楽しい」とか「物理学は面白い」でもいいし

エンドユーザーの満足や利便性が実現されるのが100年後であっても500年後であっても構わないのだが

とにかくエンドユーザーの利便性や満足が実現される必要があると思うのだ。

それがない営みが宙ぶらりんで営まれていても空しく感じるのだ。

 

でも知性や知識にはそれ自体で価値があるかもしれない。

 

まあいいだろうこの世の中に無駄なものが存在してはいけない訳でもあるまい。

無意味に過ごす時間が一番楽しかったりするし

教員になる人を再生産するサイクルが本当に無意味かどうかなんて追及する必要はないと思う。

無意味でもいいのだ、無駄でもいいのだ。

 

最近の僕は無意味なものにすら寛容になることが出来る。

ストレスを減らせるいい心構えだと思う。