芸術と経済、社会、技術的な要因の関わりについて話

芸術家が創造性を発揮して作った芸術作品は人々を感動させてくれる。

天才たちの作品は凡人には思いつかないようなことを実現している。

 

ところで僕は芸術作品は天才たちが独力で自由に生み出せるものではないと思っている。

芸術作品はそれらが作られることや、その内容も社会的要因に大きく影響を受けてしまうものだと思うのだ。

 

 

 

日本が世界に誇る陶器である伊万里焼は圧倒的な美しさと技術の高度さを持つ。

そして江戸時代の伊万里焼作品の多くが、現在ヨーロッパの宮殿に飾られている。

そうした作品たちは世界的に高く評価され高値で取引される。

 

しかしこうした伊万里焼も陶芸家が自分たちの才能と努力だけで築いたものではない。

 

時代をだいぶ遡って場所もだいぶ移動し大航海時代のヨーロッパの話をしよう。

オランダのオランダ東インド会社が香辛料などの貿易を行うために設立され

これはまた世界で初めての株式会社としても知られている。

 

オランダ東インド会社は新大陸や南洋諸島、アフリカ大陸、インド、アジアの様々な国の間で貿易活動を行い

ヨーロッパに莫大な富をもたらして当時の世界で大きな影響力を持った。

それ以前は世界の富はムガル帝国中華帝国などに集中しており

ヨーロッパなどは世界の辺境の貧しくみすぼらしい地域に過ぎなかった。

しかし大航海時代以降

ヨーロッパは世界中と金銀、香辛料、奴隷、サトウキビなどの交易を行うことにより

徐々に経済力を高めていった。

ヨーロッパの王侯貴族も徐々に当時の世界水準に照らしても豊かになっていった。

 

さてオランダ東インド会社は中国とも貿易をしており

中国からヨーロッパへ絹織物や陶磁器、茶葉などを輸入していた。

景徳鎮の陶器はヨーロッパの王侯貴族の間で大変な人気を博し

景徳鎮の製品は大量にヨーロッパに輸入されていた。

 

ところが明王朝も末期に入ると中国国内は混乱し

景徳鎮の磁器生産も打撃を受けた。

また清王朝海禁政策により景徳鎮の磁器は一切輸入できなくなった。

 

しかし磁気への需要は依然として高く

オランダ東インド会社は景徳鎮の代替産地、代替品として日本の磁器に目を付けた。

伊万里焼はこうしてヨーロッパの磁器需要を景徳鎮に変わって満たすこととなった。

これまでの景徳鎮の磁器に変わって日本製の伊万里焼が大量に作られヨーロッパに輸出されることとなった。

ヨーロッパマネーに支えられて伊万里焼の産地は潤い、陶工たちは収入を得て

伊万里焼産業は大きく発展することとなった。

 

伊万里焼の開花は

大航海時代の貿易活動、ヨーロッパの経済発展、中国での動乱、などのさまざまな背景を持って生じた現象だったのだ。

 

また、この頃ヨーロッパの各地では

磁器を自国で生産できれば多くの利益が得られるとの計算の下

自国で陶器を生産しようという動きがあり

王や貴族がこぞって資金提供を行い

多くの陶工や錬金術師が駆り出され

国産磁器を開発する競争が繰り広げられた。

(当時のヨーロッパではまだ磁器を生産する技術がなく製法も不明だった)

そうした活動の成果としてマイセンやセーブルなどのヨーロッパ磁気も誕生したのだ。

 

 

 

印象派絵画の誕生には3つの技術革新が関係しているという。

 

かつてのヨーロッパでは、油絵具は岩石を粉砕したものを使用していた。

原料となる鉱石を十分に砕いて絵具として使えるようになるまで

画家は乳鉢を使って丹念に鉱石をすりつぶし、油で溶いて使っていた。

そうした画材は持ち運びが困難であり

画家が絵を描く際にはアトリエに籠りきりになっていた。

 

しかし十九世紀になるとチューブ入り絵具が開発されて絵具に革命が起きた。

チューブ入り絵具は持ち運びに便利だったため

画家たちは早速チューブ入り絵具を持って屋外へ出るようになった。

 

こうした技術革新のおかげで

多くの画家が明るい日差しのもと屋外にキャンバスを立てて絵を描けるようになった。

時々刻々と、また季節の移ろいとともに変わる風景を表現しようと腕を振るった。

現在印象派と呼ばれる人たちである。

 

また、この頃には写真も実用化されていた。

従来のヨーロッパ絵画では遠近法や人物の描き方など写実的な表現を発達させてきた。

また画家の主要な収入源は肖像画の制作であった。

しかし記録するだけなら写真の方が圧倒的に優れているし安価であった。

写真は画家たちから多くの仕事を奪っていった。

そんな状況下で画家たちは本物そっくりに描く以上のことを絵画において行い

写真と差別化する必要があった。

印象派の画家たちはそうした中で描く対象が「ある通り」ではなく

自分たちが「感じた通り」に描く表現を生み出した。

印象派の表現はそれまでの絵画の正統からは大きく外れており

実際当時の美術アカデミーからは酷評されていた。

印象派」という言葉はモネが受けた酷評を彼らが気に入りそこから命名されたという。

 

当時は敷かれたばかりの蒸気機関車も重要な役割を果たしていたという。

画家たちは絵になる景色を求めて各地を旅したが

蒸気機関車は従来の馬車や徒歩よりも

はるかに速く遠くの田舎の景色がいい所へ移動することを可能にした。

画家たちは蒸気機関車に乗ってパリから日帰りで田舎町へ行き絵を描いて帰って来ることができた。

 

印象派の誕生の背景にはチューブ入り絵具の発明、写真機の台頭、蒸気機関車の敷設という技術的背景があったそうだ。

 

 

 

清王朝乾隆帝は即位して以降

領土拡大戦争に明け暮れ、結果として中国の領土を史上最大にまで広げた。

中国に貢物を送る周辺国も増え、経済力は大幅に高まった。

こうした経済力を背景として乾隆帝は多くの文化事業を行った。

四庫全書の編纂、宮廷画家制度の整備、陶磁器の生産(ケバいから個人的には好きじゃないけど)、自らの美術趣味を満たすために多くの文物の制作、などが行われた。

それらは現在の故宮博物院のコレクションとなっており、中国美術に与えた影響は多大である。

しかしそれらの優れた作品も広大な領土からの収入や乾隆帝個人の趣味に支えられたものであった。

 

乾隆帝の治世に芸術が開花したのには領土拡大による経済力や皇帝の趣味という背景があったのだ。

 

 

 

日本の平安時代には時の天皇や貴族たちにより雅な文化が築かれた。

源氏物語枕草子、和歌などの文学が栄え

天皇や貴族は来世での幸福を願いきらびやかな寺院や仏像、写経などが作られ

そうした文化財は現在も残っている。

源氏物語の作中では光源氏が多くの女性と関係を持っているが

そうした内容は当時の貴族の間で行われていた一夫多妻制やそれに伴う男女の苦悩など

当時の貴族文化や貴族たちの考えかたに基づいている。

 

他方、その次の時代・鎌倉時代には武家が政権を取り、社会の中心は貴族ではなく武士に変わった。

武士は常に戦場で死と隣り合わせの生活をしており

武士たちにとっては来世での幸福や無事に成仏することは重大な関心事でった。

そのため武士たちは多くが禅などの仏教宗派に帰依し

芸術作品にも禅の思想が繁栄されることとなった。

寺院建築や仏像など直接禅に関わる作品の制作が増加したのは明らかだが

墨の黒一色で描き余白を重んじる水墨画なども日本に伝わった。

また、この時代には中国の禅僧が茶道を日本にもたらし

後に室町時代に開花する茶道の原型も徐々に形成されていくなど

禅の思想は鎌倉時代の文化芸術に大きく影響している。

また、運慶と快慶作の金剛力士像などの表現に見るように

この時代には非常に男性的で力強い作品が生み出されているし

刀剣や武具など武士や戦いに直接かかわる作品などが多く作られている。

 

こうした変化を見るとその時代独特の作風には

誰がその時代を支配していたか、彼らの持つ文化や思想が大きく影響していることが分かる。

 

 

 

ラファエロの絵は優美で完成度が高く多くの人の好むところだろう。

ところでヨーロッパ美術にはキリスト教関連の作品が圧倒的に多い。

あなたは「ラファエロが描いた千手観音像」など見たことがあるだろうか?

たぶんないだろう、実在しないのだから。

でも日本にはいろいろな仏を描いた仏教絵画が沢山あるがヨーロッパにはあまりないし

ヨーロッパにはキリスト教絵画が沢山あるが日本にはあまりないのは

一体どうしてだろうか?

まあそれは周知のとおりヨーロッパの国々がキリスト教国で日本が仏教の国だからなのだが

ラファエロが優しく微笑む観音様ではなく

優しく微笑む聖母マリア様を多く描いたのも

彼が住んでいたのがキリスト教社会だからなのだが

ラファエロのような偉大な画家もテーマ選びがそもそも「自分が属する社会がどんな社会か」によって縛られているのだ。

ヨーロッパでは美術品の主要な注文主はキリスト教教会であった。

教会は画家に祭壇を飾る絵画や聖書の一場面を描く作品を芸術家に依頼した。

ヨハン・セバスティアン・バッハのオルガン曲も礼拝のために書かれたものだ。

バッハが観世音菩薩ではなく聖母マリアをたたえる曲を書いたのも

彼がキリスト教社会にいたからなのだ。

 

他方、仏教社会の日本では時の天皇や貴族や武士など各時代の支配階級の下にあって

様々に細かな違いを生みながらも仏教美術作品が作られたが

一部のキリシタンによる作品を除き

キリスト教美術は花開かず、代わりに仏教美術が花開いていた。

それも日本が仏教社会だったからだ。

 

こうした例からも作品の内容選びにまで社会的要因が関わっていることが分かる。

 

 

 

新聞に小説を連載し後に本として売り出すという小説の販売戦略は

フランスのバルザック、日本の夏目漱石、イギリスのチャールズ・ディケンズコナン・ドイルなど多くの作家が活躍するうえで重要な役割を担った。

そもそも19世紀末から20世紀初頭にかけてこうした新聞小説

新聞という商品の誕生と普及、資本主義のある程度の成熟による中流階級の形成、大衆の識字率の向上、印刷技術の進歩など多くの経済社会的要因に支えられた。

対象となる読者がいなければ新聞小説が商売として成り立たないし

マーケットが存在してもその人たちが字を読めなかったらやはり成り立たないし

仮に市場が準備万端でも印刷技術が大量の新聞を

毎日毎日高速で印刷できる技術レベルに達していなければ技術的に実現できない。

 

いくら彼らに才能があったとしても、彼らが活躍するためには

資本主義の成熟、経済社会水準の向上による教育の普及、印刷技術の進歩

などの条件が揃っている必要があったのだ。

夏目漱石朝日新聞社で働き作品を連載したことは有名な話だが

それだって朝日新聞の社長さんが文芸振興のために私財を寄付した、などではなく

そうすることが利益になり、企業経営上可能だったから出来たことだ。

 

 

 

そもそもしょっちゅう爆弾が降り注いでくるような社会や

今日の食事にも困る貧乏な社会では

おちおち芸術作品なんて作っていられないから

創作活動を行うためにはある程度平和で豊かな社会的基盤が必要だ。

 

お腹を空かせた孤高の芸術家も

あまり現金収入がない期間が続いたら餓死してしまうだろうから

作品が売れるとか、お金持ちがパトロンになってくれるとか

なんらかの形で経済的なバックボーンが必要だ。

(そしてパトロンの財力も政治とか経済的な要因の結果だ)

作品が売れるとか売れないとかも

時代ごとの市場の趣味とか経済状態によって変動するだろう。

 

 

こうした事例やもろもろを考えると

芸術も社会的な産物なのだと思う。

ひとりの天才が自由にかつ独自に生み出したもはでもなさそうだ。

かといって全てがことごとく社会的要因に縛られているわけでもないだろう。

例えば今、適当にペンを持って絵を描いたり詩を書いたりしても

あなたが今描いたものが社会的要因によって詳細に決まっていた

なんてことはないはずだ。

 

また多くの天才たちが時代の産物だからと言って

彼らが凄くないことにもならないだろう。

多くの人は時代に乗れず、チャンスも掴めず漫然と退屈な人生を送って

「あの時○○していたら」なんて恨み言をこぼすなどよくある話である。

偉大な芸術家たちはそれぞれの時代にあって多大な努力をしたし

時代の流れを掴み、チャンスを物にした。

権力者からの注文を勝ち取り、賢明に仕事をしただろう。

しかし彼らは常に時代のうねりの上に乗っかっていたのだ。

 

彼らが時代の流れにうまく乗り、掴めるチャンスを掴み

あのような業績を残したことは十分偉大なことなのだ。

そんじょそこらの人にチューブ入り絵具を渡して

ルノワールみたいな絵を描いてみろ」と言っても到底描けないだろうし

第一、ルノワールやモネの凄い所は「新しい絵画を作った」ことなのだ。

「2番目以降の人」と「1番最初の人」では天と地ほどの差があるのだ。

 

 

僕は構造主義的な考え方が大好きなので

個人を構造に閉じ込めるだけじゃなく

芸術もこうした社会的要因の中に閉じ込められている、と考えるのが好きなのだ。

 

 

社会的要因は個人にも一芸術家にも変えられないだろうが

変えられない物は仕方がないので

変えられることに注力しよう。

 

時代の流れを見極めること、

上手く時代の流れに乗ること、

最新技術を活用すること、

権力者の支持を得ること、

経済状態のいい国や地域へ行くこと、

他人のピンチは自分のチャンス、

そして取りあえずカネ・カネ・カネ!!

 

 

有名な祈りの言葉にこんなものがある

 

「神よわたしに

変えられない物を受け入れる冷静さと

変えられるものを変える勇気と

そしてそれらの物を区別する知恵を

与えてください」

(二ーバーの祈り)