短編小説:李瑛清の生涯ー悲劇の科挙浪人生の話ー

(この物語はフィクションです)

 

科挙浪人生の李瑛清は今年もまた科挙に不合格となった。

 

時は清末光緒年間。
即位当時は幼少だった光緒帝が成長し、西太后の監督から開放され親政を行った頃であった。
若き俊才光緒帝は若さと情熱のすべてを政治に捧げ、大清中華帝国を理想の国にしようと瞳を輝かせ、胸に山ほどの希望を抱いて政務に臨もうとしていた。
若き皇帝の瞳はどこまでも輝いていた。

 

李瑛清はその年で四十五歳であった。
十八歳のときに科挙を初めて受験して以来
毎年毎年落第していたのだ。
あれから二十数年、彼は未だに科挙合格を諦めることができずに日々四書五経の勉強に励んでいたのだ。
「お父さん、お勉強ばかりしていないで遊んでくださいな」
十歳になる彼の娘が言った。
今年四十五歳の彼にはすでに妻子がいるのだ。
まだ官職にも就かず収入もない彼も、いまや妻子持ちなのだ。
天鳳、やめなさい。お父さんは大事な科挙のためにお勉強をしているのです。邪魔をしてはいけません。私たちが応援してお父さんを科挙に合格させてあげるのです。遊びの相手ならお母さんがしてあげます。」
天鳳の母で瑛清の妻である淑媛が言った。
この夫婦は瑛清の五回目の科挙受験の年に出会い結婚した。
当時の彼が結婚を申し込んだ時の言葉は「私は科挙に合格しいずれは大臣になります。だから淑媛さん、あなたは大臣夫人になってください。」であった。
彼女は結婚に応じ、自らは働きながら瑛清の科挙受験を支えることを決意した。

「すみませんね淑媛さん、いつも瑛清を支えてくれて本当にありがとう。」
今年で七十歳にもなろうとする瑛清の父福清が言った。
「本当にありがとうございます。淑媛さんの働きが報われるよう、私たちも残りの命すべてを捧げて瑛清を科挙に合格させます。本当にあと少しで、あと一歩で…」
瑛清の母、徳蘭が言った。
彼女はすっかり背中も曲がり目も悪くなり体は衰えていたが、瑛清の科挙合格のための情熱、あるいは怨念は未だに衰えることはなかった。
「お母さまお父さまありがとうございます。私もあと一歩で願いが叶うと信じています。これまでも経典の勉強を積み重ねてきたのですから、紫禁城の官吏の地位にも少しずつとはいえ近づいているはずです。今年こそ、今年こそは…!」

彼らはこのやり取りをもう何回したであろうか?
毎年瑛清が科挙に失敗する度に落胆するが
それでも今年積み重ねた学問の分だけ、自分たちは天高い所にある科挙合格に近づいているのだと信じていた。
来年こそは合格に手が届くと信じていた。

福清と徳蘭は紙漉きを生業としていた。
本来なら瑛清も紙漉きの仕事を継ぐはずであった。
しかし彼はまだ八歳だったころ、学校の先生の前で論語孟子の言葉をたちまち覚えすらすらと暗唱するという、いわゆる才能の片鱗を見せたのであった。
彼の先生はそれを見て彼の両親に言った。
「私はこれまでこの土地で長い間教師をしておりましたが、彼ほどの記憶力を持った子供を見たことがありません。この子を田舎町の紙漉き職人で終わらせるのはあまりにも惜しいことです。この子にはぜひ、さらなる教育を受けさせて科挙を受験させ、朝廷の官吏への道を歩ませるべきです。」
この教師は福清と徳蘭にこう言って二人を説得した。
二人はそれまでこんなふうに思っていた。
自分たちの親も祖父母も一生貧しい紙漉き職人として生き、自分たちもそう生き、そして自分たちの子孫もそう生きる、それが当然なのだ、そう信じていた。
しかし、そんな自分たちのもとに、一粒種の息子が都に出て官吏として華々しい出世を遂げるという光が急に差したものだから、
二人はこの教師の言葉におおいに歓喜した。
彼らはその日息子と三人で家に帰ると、夜通し涙を流し手を取り合いながら息子の輝かしい未来を語り合った。
彼らの息子が役人の正装に身を包み、紫禁城に居並ぶ姿を想像して、ありとあらゆる神仏に感謝した。
そして、どんな事をしてでも彼を科挙に合格させると決意した。
瑛清も官吏になってお父さんとお母さんに楽をさせてあげるんだ、と約束した。

その時以来、福清と徳蘭は毎日死にものぐるいで働いた。
真冬だろうと真夏だろうとせっせと紙を漉いた。
いくら稼いでも無駄遣いをすれば瑛清の教育費を賄えないから必死になって節約もした。
「なんとしても瑛清を科挙に!なんとしても瑛清を中央の官吏に!」彼らはいつも恐ろしい執念で来る日も来る日も紙を漉き、鬼のように倹約し、瑛清を学校に通わせた。
この時代の学校は大変な贅沢品で、一職人の家には到底手の届く代物ではなかった。
少年瑛清は多くの貴族や大商人の子弟が通う学校に、ぼろぼろの着物をまとい雑穀と草の根っこだけの弁当を持ち通っていた。
彼の学校で彼に付けられたあだ名は「貧乏神」であった。
彼はもちろん悔しかった。自分の同級生が毎日馬車やお神輿のような乗り物に乗って登校し、学校が終わると馬車やお神輿に乗り街へ出て、酒や賭け事、果ては女遊びにまで興じているのを唇を噛んで横目で見ていた。
瑛清は自分はいつか彼らよりも高い官職に就き、彼らを見返してやるのだ、いまはそのために我慢の時なのだ、と自分に言い聞かせて泣きながら勉強をしていた。
彼ら家族の心の中では日増しに科挙合格への怨念が深く強くなっていった。

李瑛清は十八歳の時に最初の科挙を受験した。
紫禁城で行われる殿試までこぎつけることができた。
これは初めての科挙受験としては大した快挙であった。
それだけでも瑛清の将来有望さの証拠となった。
科挙中華帝国最難関の試験で何回も失敗して合格するのは普通のことだし、合格できずに諦めて行く者も星の数ほどいたのだから。

しかし瑛清は不合格となった。
殿試の時に太和殿のすだれの奥にかすかに見えたように思った皇帝の姿が、夢に見た中央官吏の地位が、また遠ざかり霧のように消えていくのを感じた。

瑛清一家は泣いた。
瑛清の才能が教師によって見出されて以来続けてきた苦しい毎日は今年で終わるはずだったのに、そうはならなかったからだ。
心の中で何かがぷつりと音を立てて切れたようだった。
「父上さま母上さま申し訳ありません…」
瑛清は自分の名前が合格者一覧にないのを見て死にそうな顔で言った。

「すまん私はもう無理だ。」その日の夜、家で食卓を囲みながら福清が言った。
「長い間、今だけは今だけはと思って働き続けてきたが、終わりが見えないとなるととたんに苦しくなった。瑛清、科挙も官吏も諦めて一紙漉き職人として暮らしていこう。父さんも母さんも昔はそれでも十分に幸せだったんだから。」
「何を弱気なことを言っているんです!今日までどれだけ頑張ってきたんですか?今日までどれだけ苦しみに耐えてきたのですか?あと少し、きっとあと少しで科挙に合格し官吏になれるはずです!もう少しで科挙合格に手が届くはずです!あとほんの少しの辛抱じゃありませんか?お父さんもしっかりしてください!」徳蘭が泣きながら言った。もはや彼女は狂気に飲まれていた。
しがない紙漉き職人の妻であった彼女の心にばら色の光が差したあの日の衝撃が彼女を後戻りできない道へと転がして行ったのだ。
「しかしもうお金がないんだよ。分かってくれ。お金にもならない勉強をいつまでも続けるような余裕は家にはないんだよ。すまない…」と福清。
「お金なら借りればいいことです!官吏になれば収入は紙漉き職人とは桁違いになるんです。いくら借りたってあっという間に返せます。でなければ今日までの苦労が無になってしまうんですよ!あと少しお金をかけるだけじゃありませんか!」と徳蘭
「しかし…」と言いかけた福清を遮って徳蘭は言った「瑛清はどうしたいんだい?」
瑛清は姿勢を正し拳を握りしめ、はっきりと力強い声で言った。
「私は来年も科挙を受験します。なんとしても中央官吏となり父上母上のご恩に報い、私の晴れ姿を父上母上に、この街のすべての人にお見せします。」
彼はなんとしてもかつて自分を馬鹿にした金持ちの同級生を見返す必要があった。
だから彼は引き下がることが出来なかった。
「しかし…」福清は言いかけたが徳蘭が続けた。
「そうよね!そうよね!やはり瑛清もまた科挙を受験したいよね!わかったわお母さんに任せなさい!お前の夢を私が支えるよ!お父さんが何と言おうと私一人でもお前を科挙に合格させるからね!」
もはや徳蘭を止められる者は広大な中華帝国のどこにもいなかった。五千年の歴史をさかのぼっても見つからなかっただろう。
彼女の執念はそれほど深かったのだ。

彼女は街で二番目の金持ち銭富溢のところへ言った。
事情を説明し瑛清の科挙浪人生活を支えるための軍資金を借りようとした。
徳蘭は皇帝に膝まづく未開人のように銭富溢の前で床に頭を擦り付けてお願いの口上を述べ立てた。
普段はケチで意地悪な銭富溢がこのときは気前よく無利子でお金を貸してくれた。
徳蘭は拍子抜けして、目を丸くしながら銀の入った袋を受け取った。

実はこの時、銭富溢は街で一番の金持ち金宝積と財力をひけらかす争いをしていたのだ。
金宝積は多くの芸術家や学者のパトロンとなりその財力と自身の趣味のよさを人々に見せつけようとしていた。
実際の彼は芸術も解さず学問もない成り上がり者であったが「乾隆帝の再来」などと呼ばれたくて分かりもしない文化を振興しようとしていたのだ。
その一環として彼は才能ある学生に多額の経済的支援をした。そしてその学生が出世を遂げると、自分おかげで偉大な才能が芽を出したのだ、と誇っていたのだ。

銭富溢はそれが癪に触った。
だから彼も貧乏学生への経済支援で徳と財力をひけらかしたかったのだ。
彼はそんな本心を滲ませないように美しい言葉を並べて徳蘭に言った。
「お顔をお上げくだされ、徳蘭さん。未来の大臣のお母上さまがそんな情けのないお姿を晒しては中華帝国とこの街の恥になります。この街から素晴らしい才能を羽ばたかせ、中央官吏を輩出できるならお金などいくら使っても惜しくはありますまい。さあその袋を持って行きなされ。あと一年は科挙の勉強を続けられるでしょう。」
徳蘭はこの言葉を聞くと涙を流して言った。
「ありがとうございます。ありがとうございます。あなた様はきっと菩薩様の生まれ変わりにございましょう。ありがとうございます。ご恩は一万年経っても忘れはいたしません…」
「長たらしいお礼はいりませぬ。さぁ息子さんのところへ、未来の大臣様のところへ行っておあげなさい。返済は出世払いで構いませんよ」
徳蘭は銭富溢に背を向けることなく何度も頭を下げながら彼のけばけばしい屋敷を後にした。


「憎たらしい金宝積め!私にだってこれくらいの事は出来るのだ!あとはあの紙漉き職人の家の息子が科挙に合格すれば私の名声も街中に轟くだろう!今に見ていろあの豚成金め!」
徳蘭が去った部屋で、自分も豚のように太った成金であるにも拘らず、彼はそう言って手に持っていた茶碗を側にいた使用人のいる方へ叩きつけた。

「いまに目に物を見せてやる!」
茶碗の破片は召使たちによって直ちに片付けられた。

科挙浪人生李瑛清十九歳の年、彼はまた科挙に不合格となった。
この一年の苦しい生活は科挙合格という果実を李一家に与えてはくれなかった。

徳蘭はまず銭富溢のもとへ謝罪に行った。
お金を返す当てがなかったからである。
一年前と同じように徳蘭は皇帝に平伏すように頭を床にこすり付けて銭に謝罪した。
もうお金を返す当てがないことも正直にはなした。
借金返済のために自身がどこかへ売り飛ばされる覚悟すらしていた
しかし銭富溢は去年と同じ銀が詰まった袋を徳蘭にくれた。
「あと一年、これを使って勉強を続けなされ。そうすればきっと科挙にも合格できるはずです。」
銭のような意地悪な金持ちがこんな風に言ったのは、瑛清を信じていたからでは断じてなかった。
彼が信じていたのはもっぱらお金の力であった。
彼の信念によれば、お金をかけさえすれば中央官吏も作れるし、偉大な芸術も栄えるし、愛すらも買うことができるのであった。
だから彼は徳蘭にお金を与えた。
「さぁ早く行った行った。その金を持って行って息子を科挙に合格させてやりなさい。」
徳蘭「いいのですか?申し訳ありません。今度こそは今度こそは!
徳蘭はこうしてもう一袋の銀を持ち家に帰った。
瑛清は言った「母上さまがそのように無様な姿を晒してまでお金を用立てて下さったのですから、母上さまの恥を雪ぐためにも私は次こそ科挙似合格してみせます。
「よく言ったぞ瑛清!母さんの頑張りを無駄にすることはあってはならぬぞ!さぁ今すぐ来年の科挙のために勉強をはじめなさい!」
長年の疲労と貧乏生活のためにもはや父福清まで正気を失い、こんな風に言い出した。
こうして一家は泥沼にはまり始めた。

「二度あることは三度ある」と格言にもあるように、瑛清はそれ以降何かに呪われてでもいるかのように毎年毎年科挙失敗した。
五回目の科挙受験の年に、瑛清は近所に住む本屋の娘淑媛と結婚した。

科挙不合格の度に母徳蘭が銭の家で泣いて詫び言い、銭がその度に多額の金をくれてやり、瑛清が新しい決意表明をすることがこの街の年中行事に加わった。
銭富溢もさすがに出世払いでお金を貸すのが嫌になって来た。そのため十回目の科挙受験の年から利子を取ってお金を貸すことにした。
徳蘭、福清、瑛清はもはや損得など忘れてしまった。いくら金がかかろうと構わない、官吏の収入で借金を返せなくても構わない、科挙を受験したい科挙に合格したい、彼らはもはやそうした怨念に身も心も支配されていた。
また銭富溢は瑛清が官吏になれなければ、これまで注ぎ込んだお金を取り立てられないから何としても瑛清に官吏なってもらう必要があると思った
だから銭は瑛清にさらにお金を注ぎ込むことにした。
「お金があればなんでもできる。しかし今回あの小僧が科挙に受からなかったのはお金が足りなかったからだ。十分なお金を払わなければ科挙合格を売ってもらえないのも当然ではないか?」それが銭の考えであった。

こうして彼はますます多くのお金をつぎ込むことにした。

 

そして合計で二十数年の年月が流れた。

清朝も末期に近づいたこの頃には国内も乱れ始めていた。

日清戦争や戊戌の政変など世界史で馴染みのある事件が次々と清国に起こった。

戊戌の政変では西太后が光緒帝から政治の実権を奪い、西太后はそれ以降次々と近代化政策を進めていった。

国内では動乱に伴い多くの混乱も生じていた。

 

李瑛清がいつも通りに書斎で科挙のために勉強をしていると木製の扉を激しくたたく音がした。

この時は他の者が留守だったので瑛清が自ら玄関へ出ると銭富溢が家来を引き連れて借金の取り立てに来たのだった。

 

銭「へっ、李瑛清大先生!今年こそは科挙に受かりそうですかい?

私ももうあんたには愛想が尽きましたよ。

私はよく知りませんがねぇ、お前さんがよくご存じの論語にはこんな言葉は載っていませんかね?

『子曰く、借りた金は返さざるべからず』ってね。

お前さまも酷いじゃありませんか?

こんなにたくさんお金を借りて返してくれないだなんて!

お前さまがお読みになっている四書五経には徳や信義のことがわんさかと書いてあるんでしょう?

ところがどうですか?あんたは借りた金も返さず

来年こそは来年こそはと言って

もう二十年以上も私を待たせているじゃありませんか?

とんだペテン師じゃありませんか?

とんだ裏切り者じゃありませんか?

徳も信義もあったものじゃありませんよ。

お前さん本当に経典を勉強しているんですかい?

私もね、初めはひょっとしたらあんたが本当に科挙に受かるんじゃないかと思っていましたよ。

でもあんたは毎年毎年わたしをがっかりさせてくれましたねぇ!

もうこれ以上お前さまのことを信じることはできませんよ!

さあこれまで貸したお金を利子と一緒に返してもらいましょうか?

えっ!どうなんですか?」

瑛「すみません銭の大殿様、いや皇帝陛下!

わたしはご存知の通りまだ科挙に合格しておらず定職にも就けず

お金なんて一文もありません。

来年こそは、来年こそは!

来年こそは科挙に手が届くはずなんです。

これまで積み上げてきたものがあるから

その上に乗っていれば

あとほんの少し手を伸ばせば届くはずなんです。

きっとそうなんです!

お願いします!あと一年待ってください!

それからあと一年分のお金を貸してください!」

銭「いい加減諦めたらどうですか?

これだけやっても駄目だったのだから

もうどう足掻いたって駄目だって証拠でしょう?

あんたがたはいつまで寝言を言っているんですか?

紙漉きでも何でもいいから仕事をしてお金を返してくださいよ!

それで足りなきゃ取れるものは骨でも魂でもいただいて行きますよ!」

瑛「命だなんてそんな…

ご勘弁をお許しを!

銭さま神さま仏さま皇帝陛下!

何卒何卒!」

瑛清はこうして皇帝に対してのみ行われるはずの三跪九叩頭の礼を銭富溢に対して行った。

彼は何とも何度も床に額を打ちつけて返済を遅らせてくれるよう願った。

金を借りた者にとって金貸しは皇帝よりも偉大なのだ。

銭「そんなことをして貰っても一文にもなりませんよ。

やめてくださいな時間の無駄ですよ!

金がないならあるものはみんな貰っていきますぜ!

何ですかこの茶色くなったたくさんの本は?

汚い本ですねぇたくさん朱で書き込みがしてあるじゃないですか?

古紙屋に売ればチリくらいのお金になりますかねぇ?

頂いて行きますぜ!さあお前たち持っていけ!」

瑛「銭の殿様!それは大事な科挙の参考書なんです!

それがないと勉強ができません!

科挙に合格できません!

科挙に合格しなければ銭の大殿様にお借りしたお金も返せなくなります。

ですからご自分のためと思ってそれは残しておいてください!」

銭「あったってどうせ合格なんてできないでしょう?

それならあってもなくても同じですよ!

お前さまの意見なんて聞いちゃいませんよ。

頂いて行きますぜ!」

瑛「そんな銭の殿様、皇帝陛下!お許しを!」

銭「私はもうあんたのために散々忍耐してきましたよ

でももうそれも尽き果てましたよ。

許すことなんてできませんぜ!

頂いて行きます!」

瑛「そんな…そんな科挙が、わたしの科挙が…」

 

「こら!それはお父さんの大事な本なんだ!

取っちゃ嫌だ!

銭の長者様おねがいです!

返してください!返してください!」

瑛「こら天鳳、どうしてここにいるんだ?

お母さまと一緒じゃなかったのか?

お母さまのところへ行って隠れていなさい。」

銭「へぇこれがあんたの娘さんですか?

話しには聞いていましたがもう十歳になるそうですね?

ちょうどいい年ごろじゃないですか?

遊郭に売り飛ばせばこれから当分の間がっぽり稼いでくれるじゃないですか?

まあこのガキンチョがどんないい体の美人に育つか

はたまたどんなに太った醜女になるかは知りませんが

とりあえず女でさえあればどこぞの遊郭がそれなりの値段で買い取ってくれるでしょうね!

あんたのごみ同然の本は置いて行きますからこの娘さんをいただいて行きますよ!」

瑛「御冗談でしょう?ただの脅かしでしょう?

銭の殿様!

分かりました、分かりました!

私は今日から心を入れ替えて借金を返すようにしますから

どうか娘を取り上げないでください!

紙すきをしながら科挙の勉強をして少しずつでもお金を返します。

娘を遊郭だなんてそんなところで働かせたくはありません!

この通りですお願いします!」

銭「はぁ?誰があんたを改心させるためにこんな脅しをするんですか?

わたしはもうあんたに期待なんてしないしあんたの教育もしませんよ!

私は本気ですよ!

さぁお前たち連れていけ!

街の遊郭の元締めの張婆さんに連絡して

この忌々しいガキをいくらで買い取ってもらえるか見積もりを立ててもらえ!」

家来たち「承知しました。さぁ行くぞ」

銭の家来たちは天鳳をひょいと肩に担ぎ上げあっさりと李家を出て行った。

天「あっ父さま父さま」

瑛「天鳳天鳳

長者様ひどいじゃありませんか!

まだ小さな子供なのに!

汚らわしい客には天鳳に指一本触れさせませんよ!

こうなれば力でご勝負を!」

瑛清は銭に飛びかかったが日ごろ座って学問をしてばかりの上に

とうに四十を超えて体力も衰えた瑛清はでっぷり太った銭富溢に簡単に弾き飛ばされた。

銭「じゃ瑛清の旦那!

あのガキンチョの査定が終わったら残りの借金を計算して知らせに来ますぜ。

なんなら残りの借金を返すために今から次の子供を拵えておいてくださいよ。

男の子なら炭坑に、女の子なら遊郭に売り飛ばしますぜ!

できれば女の子にしてくださいよ!

その方がお金になるんでね!

じゃあな旦那!頑張って紙を漉いてくださいね!」

銭富溢はあっさりと李家を後にした。

瑛「あぁ天鳳天鳳…」

瑛清は泣いた。しかし天鳳が帰って来ることはなかった。

瑛清は部屋の中で、めちゃめちゃにかき混ぜられた科挙の参考書の中にうずもれて泣いていた。

 

淑媛が帰宅した。

事情を瑛清から聞くと取り乱して泣いた。

 

その翌朝、瑛清が目を覚ますと

裏庭の木に淑媛が首をつってぶら下がっているのを見つけた。

遺書にはこう書かれていた

「瑛清さま、わたくしはもう疲れました。

あなたの科挙合格を最後まで支えらなくて申し訳ございません。

わたくしは霊魂となってこの世のどこかにいる天鳳を見つけ出し守ります。

天鳳のためならわたくしは悪霊にでもなります。

科挙の受験でしたらお母様とお父様と協力してお続けください。

いままでありがとうございました。

勝手を申して申し訳ありません。

あなたの妻・淑媛」

瑛清はまたも心の支えを失った。

 

人間は小さな赤ん坊として生まれ、成長して大人になり

やがて年を取り死んでゆくものである。

瑛清の父福清と母徳蘭もその例外ではなかった。

高齢と相次ぐ痛ましい出来事の心労、長年の過労もあり、この年のうちに瑛清の両親は相次いで死んだ。

先に父、一週間後あとを追うように母が死んだ。

 

瑛清は一人ぼっちになった。

家には父母の位牌と大量の科挙の参考書、そして途方もない額の借金だけが残った。

彼の生活費を出してくれるものはいなくなった。

そして彼は科挙の受験だなどとて言っていられなくなった。

しかし彼は紙すきの技術も商売の才覚もなかったし、農業が出来るわけでもなかった。

なぜなら彼はこれまで科挙の勉強以外してこなかったからである。

どうやって食べて行くのか、彼は見当もつかず途方に暮れていた。

 

数日後のことである。

西太后の中国近代化政策の一部として科挙が廃止されることが発表された。

時は光緒三十年であった。

中華帝国全土には瑛清の他にも多くの科挙浪人生がいたが、彼らはこの政策のために絶望のどん底に落とされた。

科挙に受かりさえすれば官吏となり華々しい名誉と富を得られる、そう信じて

これまでとてつもない時間と努力を注いできたのに

科挙制度の方がなくなってしまったために

彼らの努力は一瞬にして泡と消えてしまったのだ。

 

その日は大雨が降っていた。

瑛清はまだ喪が明けてもいない家を、傘もささずに飛び出して

ずぶ濡れになりながら空に向かってこう泣き叫んだ。

「なんという気まぐれだろう!

太后陛下は近代化を推し進めると仰って

私を旧時代に置き去りになさった!

なんという偶然だろう!

あと一年科挙の廃止が遅ければ

私は合格していたかも知れないのに!

なんという星のめぐりあわせだろう!

私が後一年早く科挙に合格できていれば

中央の官吏に地位に滑り込むことができたのに!

なんて公平な空なのだろう!

こんな私にも銭の長者様にも

紫禁城の屋根の上にも見知らぬ農夫にも

空は同じように雨を降らせてくださるなんて!

なんて薄情な世の中だろう!

千年続いた科挙制度を中華帝国は今になって廃止にするなんて

なんて意地悪な世の中だろう!

なんて冷たい社会なのだろう!

あと少し、あと少し待ってくれたなら…

あぁ…あぁ…天鳳、淑媛、父上さま母上さま

あぁ…」

彼はどこへ行くともなく雨に打たれながら、裸足のまま街の中を歩いて行った。

 

翌朝には雨はすっかり止んでいた。

街の西側を流れる川は増水はしていたが、その水面は穏やかだった。

近くの漁師が小舟の無事を確かめに川へ近づくと

ボロボロの着物をまとった男の死体が桟橋のところに引っかかって浮かんでいるのを見つけた。

李瑛清であった。

彼が自ら川へ飛び込んだのか、あるいは意図せず川に落ちたのかは誰も知らない。

しかしいずれにせよ彼は死んだのだ。

 

葬儀を執り行う家族もいない福清、徳蘭、瑛清の三人の遺骨は無縁仏として街の小さな仏教寺院に葬られた。

銭の長者は骨までも取り上げようとその寺まで押しかけて来たが、そんな物には一文の値段もつかないと家来たちに説き伏せられ、さっさと屋敷へ帰り、また別のお金儲けのことを考え始めた。

 

大雨の被害はそれほど大したこともなかったので、街は数日で元通りの平静さを取り戻した。

そして不遇の科挙浪人生・李瑛清は静かに人々の記憶から消え去って行った。

 

 

 それから数年が経った宣統三年のことである。

とある遊郭の一室でアルコールとアヘン中毒気味の男がこんな風に遊女を口説いてた。

客「僕はいまはまだしがない貧乏学生だが、いつかは清国の外交官になって日本との外交に携わるんだ。だからね、今のうちに僕と結婚しておけば君は外交官夫人になれるんだよ。どうだいすごいだろ?すごいだろ?」

すっかりアヘン中毒になり、目も虚ろな遊女はアヘンのキセルから灰を払い落としてこう言った。

女「あたしゃそういう事を言う男は大嫌いなんだよ。あたしといい仲になりたいのなら、まずそんなバカみたいなことを言うのはやめて、まっとうな仕事に就いておくれよ」

客「こんなところに身を落としてアヘン中毒になる君のような女の口からアヘンの煙のほかに『まっとうな仕事』だなんて言葉が出てくるなんて驚いたよ。ところで君はどうしてこんなところに堕ちることになったんだい?」

女「答えたくもないよ。いいじゃないか、そのおかげであんたはこうしてあたしの客になれるんだから。」

女はまたアヘンを吸い、大きく煙を吐き出した。

そして激しく咽たあと、またアヘンのキセルを吸った。

女「ほっといてくださいな」