「左利きに天才が多い」説について、それからレオナルドダヴィンチの鏡文字の話。

かつて都市伝説で「左利きには天才が多い」というのが流布していたようだ。

いわく、左利きだとイメージをつかさどる右脳がよく発達し

創造的な才能が伸びるのだという。

確かに歴史上の大天才を見ていくとレオナルドダビンチ、モーツァルトアインシュタインなどそうそうたる顔ぶれの天才たちは揃いも揃ってだったと左利きだったという。

そうしてみると確かに左利きには天才が多いように見える。

しかし偉業を成し遂げた人たちには右利きの人も多くいるし

左利きではあるがまあアレがアレでアレな僕のような人間もいる。

 

さて現代の研究成果によれば右利きだろうが左利きだろうが特に脳の創造性には違いがないのだという。

ではアインシュタインモーツァルトが左利きだったのは通常の誤差の範囲内のものなのだろうか?

 

もちろん右利き左利きは脳に対して何の効果も持たないかもしれない。

しかし僕は右利き左利きがある程度

社会的な要因を介して彼らの創造性に影響していたと思う。

 

昔々のヨーロッパや日本など多くの社会では左利きはみっともないこととされていたようだ。

16世紀に書かれたミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』作中でも左利きは格好悪く恥ずかしいことであるから矯正するべき云々という当時の社会の価値観が示されている。

また恥ずかしいとか格好悪いとかそうした要素だけでなく

昔は鎧兜などの武具や鋏などの工具や道具も右利き用に作られていたし

剣を指す向きや剣術の作法も宮廷でのテーブルマナーも右利き用に作られていたから

左利きを右利きに矯正するのは社会的な必要とメリットがあったのだ。

ちょうど現代でiPhoneを使う方がいろいろ便利なのと同じように

昔の社会では右利きは便利だったのだろう。

だから多くのご家庭では子供が左利きであることに気づいたらムキになって右利きに矯正したのだと思う。

 

さて子供の創造性は家庭環境によって大きく左右されるという。

親が無暗にあれこれと禁止したり過保護にして挑戦することを妨げたりすると

子供の創造性は押しつぶされてしまうという。

逆に子供にある程度自由を与え励ましてやり

子供が試行錯誤するのを忍耐強く見守ってやれる親の元では

子供の創造性は育まれるという。 

 

こうしたことを考えてみると

ダヴィンチ少年やモーツァルト坊や、アインシュタイン君が左利きであっても

矯正しようとしなかった彼らのご家庭は社会常識に外れたことや人と違うことを容認する自由な環境だったと推測できそうだ。

少なくとも彼らは人と違っていても社会常識に適っていなくてもよかったのだ。

彼らの創造性がゆがんだ教育によって摘み取られる要素が少なかったのだと思う。

 

もちろん、もともと何の才能も創造性もない人が野放しにされても天才的な偉業を成し遂げることはないだろう。

ただ彼ら左利きの天才たちの家庭環境には創造性を摘み取る要因が同時代の他のご家庭よりも少なかったのではないかと思う。

左利きであることと天才であることは、創造性を育みうる家庭環境と相関して顕れるのではないのだろうか?

 

そういえば左利きの天才と言えば

レオナルド・ダ・ヴィンチが鏡文字でミステリアスなノートを書いていたことをご存じだろうか?

かつては重要な発見を人に読まれないようにするために逆向きに書いただとか

特別な脳の機能の問題でダヴィンチにはそう見えていたのだとか

面白おかしく煽られたものだった。

 

ある時左利きである僕はホワイトボードに書きものをしていた。

するとホワイトボードの板面に手を着けて左から右へ横書きで字を書くと

書いたそばから自分の左手で字をつぶしていってしまうことに気づいた。

そんなことがあったので僕は閃いた。

「レオナルドダヴィンチも左利きで当時のペンとインクは乾きが遅く

欧米の言語は左から右へ横書きするスタイルだから

同じように書いたそばからインクを引きずって書いたものを潰してしまっていたに違いない!

だからダヴィンチは鏡文字を書くことによって

左利きのままで右から左へ鏡文字を書くことにしたんだ。

そうすればすべて解決だ!

そこにミステリーは何もない

至って現実的・合理的な理由で彼は鏡文字を書いていたのだ!

てかダヴィンチってやっぱ頭がいいんだなあ」

 

僕は自分が天才だと思った。

これを発表すれば大発見になると思った。

そしてそれをブログ記事にでもして発表しようと思ったのだが

その前に念のため先行研究を一通り調べることにした。

 

しかし近所の図書館で最初に手に取った本、

1990年代の初めにイタリアで出版されたダヴィンチ手稿図版集の日本語訳の前書きの所に

僕が考えたことと全く同じことがさらり書いてあったのだ。

ダヴィンチ研究の世界的権威であるというイタリアの有名大学にお勤めのイタリア人の美術学者がとうの昔にそうした研究を出していたのだ。

 

おかしなものだ。

この「大発見」の数週間前にもテレビでダヴィンチ特集が組まれており

これでもかと彼のミステリーを煽り立てていたのに

その20年以上も前にはそんな研究が出されていたのだ。

彼の説は承認されてはいないのだろうか?

はたまたテレビが数字稼ぎのために彼の研究を無視して面白おかしい番組を作ったのか?

理由は分からないが僕の知らない間にそんな研究は出されていたのだ。

 

早すぎた天才は無理解に苦しむものだし

遅すぎた天才はただの人だ。

 

いまさら三平方の定理や車輪を独自に発明しても僕は偉人にはなれないのだ。

やれやれ、僕が思いつくようなことはとうの昔にこれでもかと考えつくされているのだ。

とりあえず僕は独自のことを考えようとする前に

既存の研究成果のインプットに努める必要がありそうだ。