梶原景時について:公式の歴史と地域の伝承

鎌倉時代の武将・梶原景時についてご存じだろうか?

よほど熱の入った歴女でもない限りたぶん知らないだろう。

 

僕が静岡に住んでいた頃お気に入りのピクニックコースがあった。

標高360メートルほどの、小学生が遠足で登れるほどの山である。

山の至る所がミカン畑や茶畑になっていて中途半端に人の手が入った山である。

 

山頂の公園の立て看板によると、そこは梶原景時が(諸々あって)幕府側の討伐隊に追い詰められて自害した場所なのだそうである。

郷土資料などにもそのように書いてある。

 

曰く、幕府側の侍たちに追い詰められた武将の梶原景時は一族とともに山中に入ったが

あきらめて自害したのだという。

その時には足跡をたどって追跡されぬよう

馬を後ろ向きに走らせたなどとも書かれていた。

(なんとも器用なものである。)

山のあちこちには「梶原景時が最後に水を飲んだ泉」とされる物など、多くの遺構とされるものが案内板とともに残されている。

 

しかし、鎌倉幕府の公式歴史書吾妻鏡』を調べるとなんとも奇妙なことが書いてあった。

 

曰く、梶原景時は一宮という所から一族総出で逃げ出したところ謀反を疑われ

幕府側は討伐のために軍兵を派遣した。

すると旅の途中、現在の静岡県静岡市駿河国清見関というところで地元の土着武士に発見され合戦が始まった。

その合戦には現在も静岡市の地名として名前が残る庵原氏、飯田氏、渋川氏、船越氏、吉香氏などが関わっていた。

そして梶原氏の一族の多くが討たれた。

合戦は清見関から狐ヶ崎、そして現在梶原山と呼ばれる山まで続いたそうな。

(馬で走っても結構距離がある)

そして景時は戦死したが、その時は景時の首を得ることが出来なかったという。

 

翌日山中で景時とその子供の首を探し出して路頭に掛けたそうな。

地元武士団が幕府に対して行った報告によると

梶原景時は地元武士の矢部小次郎という人物に討ち取られたことになってる。

このとき景時討伐に功績があった地元の武士たちはその後幕府から褒美をもらっている。

 

 

つまりローカル伝承では山中で自害したことになっているが

公式の歴史書では地元武士に討ち取られたことになっているのだ。

 

さて、梶原景時はいったい全体どうやって死んだのだろう?

討ち死になのか自害なのか?

地元伝承が本当か、公式の歴史書が本当か?

地元伝承が美化脚色されていることは十分考えられるし

地元武士が名誉ほしさに嘘の報告をしたとも考えられる。

こういうのは経済的な利害関係も考慮にいれて読む必要がある。

 

死んでしまえば同じこと、とも思えるが

当時の武士にとっては討ち死には恥だからそうなる前に自害したいし

地元武士の矢部さんたちだって自害した人の首を切りとって幕府に差し出してもあまり名誉にはならない。

 

 

ともかく、田舎の一地域で起きた戦いの最中にどんな悶着があったのかは今となっては知る由もない。

戦場はきっとゴタゴタしていただろう。

資料や出土品を分析しても答えが出ないこの手の問題をあれやこれや考えても埒があかない。

 

まあいずれにせよ梶原景時が死んだという大まかな点では一致しているので細かい詮索はこれで終わりにしよう。