かに星雲の超新星爆発と藤原定家の『明月記』について

よくある有名なエピソードなのだがあなたも知っているだろうか?

今から約1000年前にかに星雲超新星爆発の目撃情報が日本の貴族の日記に載っていたという話である。

 

この目撃情報は西洋にも記録がなく

この貴族の日記と中国の記録、それからアメリカインディアンの壁画など数個しかない

とても貴重な記録なのだ。

それから数百年経ってからメシエがカタログに記載したりしている。

 

約1000年前に地球のあちらこちらで同じ天文現象を目撃してそれが記録に残り

今もその時の名残を見ることが出来るだなんてとてもロマンティックだと思う。

 

僕はかつてかに星雲の話をわくわくしながらNHKの番組で見ていた。

そして僕はたくさんの本を読んでかに星雲について調べた。

おかげでパルサーがどうとかブラックホールがこうとか

チャンドラセカール限界がああだとか変な知識をつけていった。

 

 

そしてその「日本の貴族の日記」について書かれているのもあちこちで見かけた。

しかし多くの天文学の本を漁っても「日本の貴族」とか抽象的なことが書いてあるだけで具体的な典拠は書いてなかった。

そこで僕はその原典を突き止めることにした。

 

今回はその当時の調査結果をここに記録して残しておこうと思う。

 

その貴族というのは平安末から鎌倉時代に活躍した藤原定家である。

小倉百人一首の選者として有名なあの人だ。

その日記とは『明月記』である。

国語の教科書にも名前くらい載っているから知っている人も多いだろう。

 

超新星爆発の目撃情報は

藤原定家著『明月記』寛喜二年十一月八日の記事に書いてある。

 

ところが天文学の研究によるとかに星雲超新星爆発は西暦1054年に起こっている。

それに対して藤原定家は1162年生まれ1241年没である。

それでは、かに星雲超新星爆発を直接目撃出来るわけがない。

 

実は藤原定家超新星爆発を直接目撃したわけではないのだ。

では『明月記』の内容を詳しく見ていこう。

 

藤原定家は数日前から天文観測を司る役所に勤める友人と不思議な天文現象について話をしていた。

 

そして定家はそうした不思議な天文現象に興味を持ち

日本や中国の古い文献をかき集めて一覧を記録したのだ。

かに星雲超新星爆発はこのリストのなかの一つである。

 

(当時は陰陽道が本気で信じられていて朝廷には天文観測と占いを行う役所があり

陰陽師が役人としてつとめていたのだ。

不思議な天文現象はとてつもない凶兆かもしれないから当時の人はそれなりに恐れていたことだろう。)

 

本文はたった二行しかないシンプルなものである。

 

「後冷泉院天喜二年四月中旬以降、丑時、客星出觜参度、見東方、孛天関星、大如歳背星」

 

これだけである。

 

 

現代語訳すると

「後冷泉院の治世天喜2年4月中旬以降、深夜二時頃、普段は見られない星(=客星)がオリオン座の方角に出て、東の方に見えた、牡牛座のゼータ星(=天関星)に突然現れ、大きさは木星(=歳星)ほどであった」ということらしい。

 

このオリジナルの記録は現在は行方不明になっているという。

あっさりしすぎていてこれがかに星雲なのかナニ星雲なのかどうやって特定したのか不思議になるくらいにあっさりしているが

これがかの有名な『かに星雲目撃情報』の現物なのである。

 

意外とあっけない記述であった。

これだけの記述なのにこれを巡って天文学の本には多くの逸話が書かれていた。

なんだかあっけないようなすっきりしたような気持ちになったのを今も覚えている。

 

今夜も夜空を見上げてみよう。

藤原定家(が引用した古記録の著者)も見たかに星雲がぼんやりと輝いていることだろう。