2019年を振り返る

1月

野沢温泉スキー場で年末年始を過ごす。

友達ができた。

今度会いに行こうと思う。

後期の授業が急がしかった。

 

2月

後期の試験で凄いことになっていた。

取り過ぎた授業、試験に追われて生きた心地がしなかった。

後半は福島県のたかつえスキー場へ行った。

 

3月

たかつえスキー場でも友達とスノボしてお酒を飲んだりして楽しかった。

後半には大学のプログラムに参加してアメリカへ行った。

費用が全部国からでるプログラムでこれに選ばれたことは大変名誉だった。

 

4月

三年生になった。

今度こそ余裕のある履修をしようと思ったが失敗してやはり多忙になった。

他に特に覚えていない。

大学で2年生のコース分けがあり僕が新歓の監事になった。

おそらく一生に一度しかないであろう経験をさせてもらえて嬉しかった。

 

5月

ゴールデンウィークには大学のプログラムに参加して中国へ行った。

楽しかった。

一緒に行った奴らと仲良しになった。

中国茶と出会って夢中になった。

 

6月

覚えていない。

某サークルの人と大げんかして活動休止したのはこのあたりかな?

 

7月

覚えていない。

たぶん試験で忙しかった。

自転車で日本一周中のYくんが金沢の僕の家に泊まったのはこの頃かな?

 

8月

軽井沢に一ヶ月滞在。

軽井沢に滞在するのは大学で二回目。

とても社会勉強になった。

 

9月

まだ軽井沢にいた。

とあるプログラムに参加して中国へ行くつもりだったが

様々な問題のためにプログラムが中止になり中国へは行けなかった。

僕を行かせたくなかったから嘘を言ったのでは?と疑心暗鬼になった。

僕一人のために本当にわざわざそんなことをするとは思わないが疎外感を覚えた。

 

10月

後期が始まった。

一緒に飲みに行くこともあったお友達と疎遠になっていった。

僕には人を引き止めるほどの魅力がないのかなと思った。

TOEICの試験で高得点をとり大学の奨学金をもらってお金を儲ける計画を立てた。

結果はお金をもらえるほどではなかった。

 

11月

サークルのお友達とともに四国愛媛県松山に行った。

人生最高レベルで楽しい時を過ごせた。

お友達が大会ですごい賞をもらったので嬉しかった。

あんなに頑張っているなんてすごいなと思った。

僕ももっと頑張ろうと思った。

 

12月

まだ始まったばかり。

友達がほしいなあ

 

 

「左利きに天才が多い」説について、それからレオナルドダヴィンチの鏡文字の話。

かつて都市伝説で「左利きには天才が多い」というのが流布していたようだ。

いわく、左利きだとイメージをつかさどる右脳がよく発達し

創造的な才能が伸びるのだという。

確かに歴史上の大天才を見ていくとレオナルドダビンチ、モーツァルトアインシュタインなどそうそうたる顔ぶれの天才たちは揃いも揃ってだったと左利きだったという。

そうしてみると確かに左利きには天才が多いように見える。

しかし偉業を成し遂げた人たちには右利きの人も多くいるし

左利きではあるがまあアレがアレでアレな僕のような人間もいる。

 

さて現代の研究成果によれば右利きだろうが左利きだろうが特に脳の創造性には違いがないのだという。

ではアインシュタインモーツァルトが左利きだったのは通常の誤差の範囲内のものなのだろうか?

 

もちろん右利き左利きは脳に対して何の効果も持たないかもしれない。

しかし僕は右利き左利きがある程度

社会的な要因を介して彼らの創造性に影響していたと思う。

 

昔々のヨーロッパや日本など多くの社会では左利きはみっともないこととされていたようだ。

16世紀に書かれたミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』作中でも左利きは格好悪く恥ずかしいことであるから矯正するべき云々という当時の社会の価値観が示されている。

また恥ずかしいとか格好悪いとかそうした要素だけでなく

昔は鎧兜などの武具や鋏などの工具や道具も右利き用に作られていたし

剣を指す向きや剣術の作法も宮廷でのテーブルマナーも右利き用に作られていたから

左利きを右利きに矯正するのは社会的な必要とメリットがあったのだ。

ちょうど現代でiPhoneを使う方がいろいろ便利なのと同じように

昔の社会では右利きは便利だったのだろう。

だから多くのご家庭では子供が左利きであることに気づいたらムキになって右利きに矯正したのだと思う。

 

さて子供の創造性は家庭環境によって大きく左右されるという。

親が無暗にあれこれと禁止したり過保護にして挑戦することを妨げたりすると

子供の創造性は押しつぶされてしまうという。

逆に子供にある程度自由を与え励ましてやり

子供が試行錯誤するのを忍耐強く見守ってやれる親の元では

子供の創造性は育まれるという。 

 

こうしたことを考えてみると

ダヴィンチ少年やモーツァルト坊や、アインシュタイン君が左利きであっても

矯正しようとしなかった彼らのご家庭は社会常識に外れたことや人と違うことを容認する自由な環境だったと推測できそうだ。

少なくとも彼らは人と違っていても社会常識に適っていなくてもよかったのだ。

彼らの創造性がゆがんだ教育によって摘み取られる要素が少なかったのだと思う。

 

もちろん、もともと何の才能も創造性もない人が野放しにされても天才的な偉業を成し遂げることはないだろう。

ただ彼ら左利きの天才たちの家庭環境には創造性を摘み取る要因が同時代の他のご家庭よりも少なかったのではないかと思う。

左利きであることと天才であることは、創造性を育みうる家庭環境と相関して顕れるのではないのだろうか?

 

そういえば左利きの天才と言えば

レオナルド・ダ・ヴィンチが鏡文字でミステリアスなノートを書いていたことをご存じだろうか?

かつては重要な発見を人に読まれないようにするために逆向きに書いただとか

特別な脳の機能の問題でダヴィンチにはそう見えていたのだとか

面白おかしく煽られたものだった。

 

ある時左利きである僕はホワイトボードに書きものをしていた。

するとホワイトボードの板面に手を着けて左から右へ横書きで字を書くと

書いたそばから自分の左手で字をつぶしていってしまうことに気づいた。

そんなことがあったので僕は閃いた。

「レオナルドダヴィンチも左利きで当時のペンとインクは乾きが遅く

欧米の言語は左から右へ横書きするスタイルだから

同じように書いたそばからインクを引きずって書いたものを潰してしまっていたに違いない!

だからダヴィンチは鏡文字を書くことによって

左利きのままで右から左へ鏡文字を書くことにしたんだ。

そうすればすべて解決だ!

そこにミステリーは何もない

至って現実的・合理的な理由で彼は鏡文字を書いていたのだ!

てかダヴィンチってやっぱ頭がいいんだなあ」

 

僕は自分が天才だと思った。

これを発表すれば大発見になると思った。

そしてそれをブログ記事にでもして発表しようと思ったのだが

その前に念のため先行研究を一通り調べることにした。

 

しかし近所の図書館で最初に手に取った本、

1990年代の初めにイタリアで出版されたダヴィンチ手稿図版集の日本語訳の前書きの所に

僕が考えたことと全く同じことがさらり書いてあったのだ。

ダヴィンチ研究の世界的権威であるというイタリアの有名大学にお勤めのイタリア人の美術学者がとうの昔にそうした研究を出していたのだ。

 

おかしなものだ。

この「大発見」の数週間前にもテレビでダヴィンチ特集が組まれており

これでもかと彼のミステリーを煽り立てていたのに

その20年以上も前にはそんな研究が出されていたのだ。

彼の説は承認されてはいないのだろうか?

はたまたテレビが数字稼ぎのために彼の研究を無視して面白おかしい番組を作ったのか?

理由は分からないが僕の知らない間にそんな研究は出されていたのだ。

 

早すぎた天才は無理解に苦しむものだし

遅すぎた天才はただの人だ。

 

いまさら三平方の定理や車輪を独自に発明しても僕は偉人にはなれないのだ。

やれやれ、僕が思いつくようなことはとうの昔にこれでもかと考えつくされているのだ。

とりあえず僕は独自のことを考えようとする前に

既存の研究成果のインプットに努める必要がありそうだ。

スマホを落としただけなに…スマホを失くして困ってしまった話

かの天才物理学者アインシュタインはあるとき電車に乗っていると

切符を失くしてしまったことに気づいたそうな。

電車の中でポケットを探り困った様子の白髪の老人を車掌が見つけると

なんとかの高名な物理学者アインシュタイン教授ではないか。

車掌は言った「アインシュタイン先生なら切符なんて要りませんよ、どこでもお好きなところでお降りください。」

しかしアインシュタインは言った

「しかし切符を見ないとどこの駅で降りようとしていたのか分からないのだよ…」

 

アインシュタインがいかにアンバランスでぶっ飛んだ人物であったかを示すエピソードであるという。

アインシュタイン相対性理論や光量子仮説やブラウン運動の理論など数々の偉業を成し遂げた天才だがこんなお茶目な側面があったのだそうな。

 

さて大学で物理学をちょっとばかりお勉強している僕は

アインシュタインの影を踏むことも許されないし

アインシュタイン先生が道をお歩きになるときには

道端にひれ伏してお姿を拝見することもできず

うっかり顔を上げようものなら

護衛のお侍さまにその場で切り捨てられても文句も言えないような凡才学生なのだが

記憶力はアインシュタイン並みに欠如しているのだ。

 

そんな僕がこの度スマホを失くしてしまったのだ。

さて困ったことになった。

現代人は多かれ少なかれスマホに依存しており

スマホがないと何も生活できないという人は多いだろう。

僕もそんな一人なのだ。

 

僕はスマホの予定表がないと明日の授業科目や教室の場所も分からない。

だから今の僕は、あした何の教科書を持って何時にどこの教室へ行けばいいのかそれすら分からない。

また結構な額の当座のお金を電子マネーとしてチャージしていたので

スマホがないとお買い物もできない。

ラインやインスタのDM機能がないとお友達との連絡も取れない。

 

そしてスマホGPS機能を使えば場所を特定できると閃いたのだが

パソコンからスマホ会社の管理ページにアクセスしようとしたら

ホームページがリニューアルされており

かつて記憶させたIDとパスワードを再入力する必要があるのだが

IDとパスワードはスマホのメモ帳機能にしか書いてないので

スマホを失くした今それにアクセスすることすらできないのだ。

いよいよ困ったことになった。

 

さて僕は至急お店の窓口に行って対策を打とうと思いついたが

とりあえずお腹が空いているので先に晩御飯を食べることにしてパスタをゆで始めた。

そしてついでに電気ケトルでお湯を沸かしインドネシア産の紅茶を飲んでいる。

僕はお湯を沸かしパスタが茹で上がるまでの時間に

このスマホ紛失事件のことをブログ記事にしようと思い付き今この記事を書いている。

 

なんとまだスマホ会社の窓口へは行っていない。

そういえばもう今日の窓口営業は終わってるかもしれない時間だし、

あとスマホには指紋認証でロックを掛けてあるからよほどの事がないと悪用のしようがない。

現金も多少はある。

だから不便なのを我慢すればスマホなんてなくても困らないし、と思っている。

僕はなんて楽天的なのだろう。

 

おっとパスタを茹ですぎてしまったようだ。

とうに15分くらい経っている。

15分前の僕はタイマーをセットするのも忘れていたようだ。

1.8mmだったパスタはぶよぶよにむくんで2.4mmくらいになっていて食感も悪い。

僕はそれにレトルトのミートソースをかけて食べている。

空腹のときに食べる物は茹ですぎたパスタでも旨いものだ。

 

さて、どうやってスマホを回収したらいいだろうか?

僕が英語の勉強を頑張ることについて

どうやら現代ではグローバル化がすっかり進んでいて

そんな社会状況で生きていくためには英語が不可欠らしい。

 

僕が在籍している大学でもグローバル化がどうのこうのと言って

授業の英語化や学生の英語力向上に力を入れている。

我々はそんな中で英語授業を受け、在学中に二回も英語試験のTOEICを受けさせられるなど苦労している。

 

しかし多くの人が自ら実感したり見聞きして知っている通り日本人の英語力は総じて低い。

そして多くの学生たちが英語が面倒だの英語なんて要らないなどと言って英語を避けようとしている。

 

しかし僕が改めて指摘するまでもないが

やはり英語は必要なのだと思う。

理由は以下の通りだ。

 

特に僕はコンピュータシミュレーションを使って物理現象を研究するという分野の勉強をしている。

これはまあまあ専門性が高い分野だ。

 

専門性が高い分野・仕事ほどそれを活用するためには大きな組織・大きな市場が必要になってくる。

だから仕事をする地域を日本だけに限定していたらチャンスは少なくなってしまう。

対象を全世界とかに広げた方がチャンスは大きくなるだろう。

ダーツの的が大きければ矢が当たりやすいのと同じことだ。

 

また「英語なんて必要ない」という意見をよく聞くが必要なくたってやったらいいのだ。

誰だって毎日を楽しく豊かにするためにちょっと奮発していい物にお金を払ったり

あるいは無駄遣いをしているはずだ。

英語学習の時ばかり厳密に合理的になる必要はないだろう。

つまりはNeedではなくWantなのだ。

より広い世界で活躍したい

より多くの収入が欲しい

そういった欲望や願望から勉強するのだ。

 

外国に行かなければ英語なんて必要ないというのもおそらく違うだろう。

今の時代はお客さんが外国人とか取引先が外国企業だとかそんな状況はいくらでもありうる。

外国人の担当者が日本に来て商談するとかそんなことはいくらでもあるだろう。

そんなときに「僕は英語ができないのでこの仕事の担当は無理ですぅ」などとは言っていられないだろう。

そんな時でも対処できる英語力くらい付けておいた方がいいだろう。

 

あと英語ができると日本国内でステータスが高まると思う。

TOEICのスコアがよければ実際に使える使えないにかかわらず就職市場で有利になる。

英語が出来るととりあえず「すごい」と言われて一目置かれる。

英語を重視する国際系の学部では英語のスコアによってヒエラルキーの上下が変動しうるだろう。

何というかTOEICのような英語資格は

世界的には使われていないガラパゴス資格にもかかわらず

日本国内では絶大な効力を持つのだ。

それが良いか悪いかは別としてこうした現象が実際に起こっているのだから

この力動に乗っかるのは賢明な戦略だろう。

 

現時点でも英語が出来ることによって大学内ですでに得をし始めている。

たいした内容ではないレポートも英語で書けば評価がAからSに上がるし

学内の海外交流プログラムの英語面接もやすやすと突破して激安で海外へ行ける。

ある種の教養科目では授業を英語でやる代わりに内容を簡単にするサービスがあって

僕は英語が得意だから内容が簡単というメリットの部分だけが残ったりしている。

学内の英語学習奨励制度を利用して賞金をたっぷり貰ったりもしている。

 

そして英語が出来ることで僕は大学にいる多くの留学生ともコミュニケーションをとることが出来ている。

英語が出来なかったら広がらなかっただろう友達の輪が

英語が出来たことで広がったのだ。

それは単純に嬉しかった

そうやって友達の輪が広がるほどに「自分にはできるんだ」という感覚が得られる。

それが単純に楽しいのだ。

 

さてと日本語でブログなんか書くのはやめて英語の勉強に取り掛かろうか。

勉強した内容の専門性ばかり高くなって英語が出来ないと

却って自分の市場価値が下がっちゃうから。

梶原景時について:公式の歴史と地域の伝承

鎌倉時代の武将・梶原景時についてご存じだろうか?

よほど熱の入った歴女でもない限りたぶん知らないだろう。

 

僕が静岡に住んでいた頃お気に入りのピクニックコースがあった。

標高360メートルほどの、小学生が遠足で登れるほどの山である。

山の至る所がミカン畑や茶畑になっていて中途半端に人の手が入った山である。

 

山頂の公園の立て看板によると、そこは梶原景時が(諸々あって)幕府側の討伐隊に追い詰められて自害した場所なのだそうである。

郷土資料などにもそのように書いてある。

 

曰く、幕府側の侍たちに追い詰められた武将の梶原景時は一族とともに山中に入ったが

あきらめて自害したのだという。

その時には足跡をたどって追跡されぬよう

馬を後ろ向きに走らせたなどとも書かれていた。

(なんとも器用なものである。)

山のあちこちには「梶原景時が最後に水を飲んだ泉」とされる物など、多くの遺構とされるものが案内板とともに残されている。

 

しかし、鎌倉幕府の公式歴史書吾妻鏡』を調べるとなんとも奇妙なことが書いてあった。

 

曰く、梶原景時は一宮という所から一族総出で逃げ出したところ謀反を疑われ

幕府側は討伐のために軍兵を派遣した。

すると旅の途中、現在の静岡県静岡市駿河国清見関というところで地元の土着武士に発見され合戦が始まった。

その合戦には現在も静岡市の地名として名前が残る庵原氏、飯田氏、渋川氏、船越氏、吉香氏などが関わっていた。

そして梶原氏の一族の多くが討たれた。

合戦は清見関から狐ヶ崎、そして現在梶原山と呼ばれる山まで続いたそうな。

(馬で走っても結構距離がある)

そして景時は戦死したが、その時は景時の首を得ることが出来なかったという。

 

翌日山中で景時とその子供の首を探し出して路頭に掛けたそうな。

地元武士団が幕府に対して行った報告によると

梶原景時は地元武士の矢部小次郎という人物に討ち取られたことになってる。

このとき景時討伐に功績があった地元の武士たちはその後幕府から褒美をもらっている。

 

 

つまりローカル伝承では山中で自害したことになっているが

公式の歴史書では地元武士に討ち取られたことになっているのだ。

 

さて、梶原景時はいったい全体どうやって死んだのだろう?

討ち死になのか自害なのか?

地元伝承が本当か、公式の歴史書が本当か?

地元伝承が美化脚色されていることは十分考えられるし

地元武士が名誉ほしさに嘘の報告をしたとも考えられる。

こういうのは経済的な利害関係も考慮にいれて読む必要がある。

 

死んでしまえば同じこと、とも思えるが

当時の武士にとっては討ち死には恥だからそうなる前に自害したいし

地元武士の矢部さんたちだって自害した人の首を切りとって幕府に差し出してもあまり名誉にはならない。

 

 

ともかく、田舎の一地域で起きた戦いの最中にどんな悶着があったのかは今となっては知る由もない。

戦場はきっとゴタゴタしていただろう。

資料や出土品を分析しても答えが出ないこの手の問題をあれやこれや考えても埒があかない。

 

まあいずれにせよ梶原景時が死んだという大まかな点では一致しているので細かい詮索はこれで終わりにしよう。

 

かに星雲の超新星爆発と藤原定家の『明月記』について

よくある有名なエピソードなのだがあなたも知っているだろうか?

今から約1000年前にかに星雲超新星爆発の目撃情報が日本の貴族の日記に載っていたという話である。

 

この目撃情報は西洋にも記録がなく

この貴族の日記と中国の記録、それからアメリカインディアンの壁画など数個しかない

とても貴重な記録なのだ。

それから数百年経ってからメシエがカタログに記載したりしている。

 

約1000年前に地球のあちらこちらで同じ天文現象を目撃してそれが記録に残り

今もその時の名残を見ることが出来るだなんてとてもロマンティックだと思う。

 

僕はかつてかに星雲の話をわくわくしながらNHKの番組で見ていた。

そして僕はたくさんの本を読んでかに星雲について調べた。

おかげでパルサーがどうとかブラックホールがこうとか

チャンドラセカール限界がああだとか変な知識をつけていった。

 

 

そしてその「日本の貴族の日記」について書かれているのもあちこちで見かけた。

しかし多くの天文学の本を漁っても「日本の貴族」とか抽象的なことが書いてあるだけで具体的な典拠は書いてなかった。

そこで僕はその原典を突き止めることにした。

 

今回はその当時の調査結果をここに記録して残しておこうと思う。

 

その貴族というのは平安末から鎌倉時代に活躍した藤原定家である。

小倉百人一首の選者として有名なあの人だ。

その日記とは『明月記』である。

国語の教科書にも名前くらい載っているから知っている人も多いだろう。

 

超新星爆発の目撃情報は

藤原定家著『明月記』寛喜二年十一月八日の記事に書いてある。

 

ところが天文学の研究によるとかに星雲超新星爆発は西暦1054年に起こっている。

それに対して藤原定家は1162年生まれ1241年没である。

それでは、かに星雲超新星爆発を直接目撃出来るわけがない。

 

実は藤原定家超新星爆発を直接目撃したわけではないのだ。

では『明月記』の内容を詳しく見ていこう。

 

藤原定家は数日前から天文観測を司る役所に勤める友人と不思議な天文現象について話をしていた。

 

そして定家はそうした不思議な天文現象に興味を持ち

日本や中国の古い文献をかき集めて一覧を記録したのだ。

かに星雲超新星爆発はこのリストのなかの一つである。

 

(当時は陰陽道が本気で信じられていて朝廷には天文観測と占いを行う役所があり

陰陽師が役人としてつとめていたのだ。

不思議な天文現象はとてつもない凶兆かもしれないから当時の人はそれなりに恐れていたことだろう。)

 

本文はたった二行しかないシンプルなものである。

 

「後冷泉院天喜二年四月中旬以降、丑時、客星出觜参度、見東方、孛天関星、大如歳背星」

 

これだけである。

 

 

現代語訳すると

「後冷泉院の治世天喜2年4月中旬以降、深夜二時頃、普段は見られない星(=客星)がオリオン座の方角に出て、東の方に見えた、牡牛座のゼータ星(=天関星)に突然現れ、大きさは木星(=歳星)ほどであった」ということらしい。

 

このオリジナルの記録は現在は行方不明になっているという。

あっさりしすぎていてこれがかに星雲なのかナニ星雲なのかどうやって特定したのか不思議になるくらいにあっさりしているが

これがかの有名な『かに星雲目撃情報』の現物なのである。

 

意外とあっけない記述であった。

これだけの記述なのにこれを巡って天文学の本には多くの逸話が書かれていた。

なんだかあっけないようなすっきりしたような気持ちになったのを今も覚えている。

 

今夜も夜空を見上げてみよう。

藤原定家(が引用した古記録の著者)も見たかに星雲がぼんやりと輝いていることだろう。

物理や数学に興味があることと社会的なことがらに興味があること

僕がこのごろ思うに

僕は本当は物理にも数学にも自然現象にも興味がないのかもしれない。

 

僕は大学では物理を勉強しているし

他の人は物理になんて見向きもしないからには

僕はある程度は物理に関心を払っているのだろう。

また最近では中国の某大学(トップ3には入る大学)に一年くらい留学をするつもりでいる。

それから学内で成績上位になりたくて勉強を頑張ろうとしている。

大学院は東京大学にしようかなんて妄想もしている。

 

しかし最近の僕は単位を取るのに精一杯だし

もっぱらの関心事は卒業後の仕事や収入のことばかりだ。

 

そして僕の最近のモチベーションを考えると

僕はつくづく社会的な事柄に興味があるのだと気付くのだ。

 

単位が欲しいのは大学の卒業要件を満たすためだし

そのために試験が何割とかレポートでの評価がどうとかそんなことを計算している。

成績上位になりたいのもクラス内での小競り合いに過ぎない。

留学だって中国の超有名大学に通ったという名誉が欲しいからだし

なぜ東京大学かと言ったらそこが日本最高の大学だからだ。

将来の仕事も(とても大事なことだけど)結局はお金の話だし。

 

しかしそんなモチベーションでは続かないと思う。

社会制度も他人の評価もあまりにももろいから。

他の方法でそれが満たされたら、別に物理である必要もない。

 

僕が子供の頃から大好きだったアインシュタインはとても純粋な好奇心から研究をして

偉大な業績を残したのだと思う。

それくらいじゃないと研究なんて出来ないと思う。

 

いまや、夜空の星も磁石に鉄がくっつくのも僕の心には響かなくなってしまった。

純粋な心を持ったかつての僕はどこへ行ってしまったのだろう?