雪にはしゃぐ静岡県民

私は静岡県で生まれた。静岡県と言えば某新幹線も見捨てて素通りしてゆくほどの気の毒な県として有名であるが、実はここ静岡県ではまったく雪が降らないのである。

そんな静岡県の民がにわかに豪雪地帯の金沢に来たのだから、並大抵のことでは済まされない。しかも昨年の冬(2017末から2018初めにかけて)は金沢にとっても数十年振りの豪雪だったそうな。多くの人がとんだ災難に遭ったことは記憶に新しいだろう。

静岡県民にとっては雪が降ることすら珍しい現象なのだ。静岡県は太平洋側に位置しており、日本海からの湿った風が偏西風に乗り山脈を越える際に水分のほとんどを日本海側に落としてくるから、冬は乾燥しており雨すらたまにしか降らないのだ。静岡県で雪が降ったりしたら、それは地元新聞の一面ニュースになるような珍事なのだ。小学校は通常授業を一時停止して児童に雪遊びをさせてくれたりもする。ニュースでは道路が幽かに白くなった程度のものを映して、積雪があったと騒ぎ、雪に不慣れな静岡県民が雪道で転ぶ映像を十数連発で流したりするのだ。

金沢に雪が降り始めたとき、金沢大学では多くの静岡出身の一年生が初めて見る雪にはしゃいでいた。雪が降る所へ手を伸ばし、つかまえた雪を写真に撮ったりしていた。そのはしゃぎ方を見れば誰が静岡県民やその他東海地方民か、北陸民には一目瞭然だっただろう。雪だるまを作ったり雪合戦をしたり、多くの人が見慣れぬ雪を楽しんでいた。路上の融雪装置が水を噴き出している様子にさえ静岡の民は騒いでいた。ただしそれも最初の内だけだった。

雪はその後も降り積もり続け積雪は優に1メートルを超えていただろう。東海民も異変に気付きだした。そして雪に怯える者もいた。どんな雪対策が必要かすら知らない東海民は雪用の靴の準備すらしておらず、まともに道路を歩けない者もいた。多くの者が北鉄バスの途方もないダイヤの乱れのために遅刻欠席となり、学力の問題ではなく雪のために単位を落とした者もあっただろう。金沢大学はここへきて奇跡の英断を下し、久方ぶりに「雪のため臨時休講」を発表した。

ところで、この年わたしは生まれて初めて雪かきということをした。なぜ道を歩くだけでこんなに疲れるのか、思いもよらなかった。一体「冬だから」と「自転車が使えない」という二つの命題の間にどんな論理があるのか、未だかつて知らなかった。静岡では冬であろうと夏であろうと道は変わらず歩けたし、自転車も普通に使えたのだ。だから普通に道を歩き通常の生活をするためだけに『雪かき』などという重労働をしたことなどなかったのだ。

わたしは大学内で雪かきをしていた職員のおばさんにお願いしてシャベルを借りて雪かきをした。わたしにとっては過酷な重労働ではなく珍しい体験だったので些細なことにもいちいちはしゃぎながら雪かきをした。こんなことをやりたいと言い出すなんて今から思えばわたしはなんとお目出たい人なのだろう。踏み固められた雪はもはや氷の塊となっていて簡単には砕けなかった。ツルハシが地面の舗装に当たると火花がでることも初めて知った。二時間ほど雪かきをしていた。職員のおばさんは何度もお礼を言ってくれた。こんなにやってもらっては申し訳ないというのでそれで引き揚げて私は住まいへ帰って行った。

次の朝には案の定私は全身の筋肉痛に襲われた。しかし「雪かきをすると全身の筋トレになるのだ」などと謎の理論を提唱し、もっと積極的に雪かきをやろうと思った。私はなんてお目出たい人なのだろう。しかし、たかが雪のためにこんなにはしゃぎ喜べるやわらかな心を持っていることをとても嬉しく思う。