頑張れば頑張るほど空しくなることについて
「自己肯定感」という言葉を最近よく目にする。
いわく、自分は無条件に価値があり自分は無条件に存在していい、と自分で思えることらしい。
これは社会で生きていくうえでも幸福感を得るためにもとても重要な能力であるという。
ところで僕は過去から現在に至るまで勉強もできたし絵を描いたりピアノを弾いたり、なんでも出来る人だと誉めそやされて育ってきた。
また、やるべきことは頑張ってやるタイプなので、大学のレポートなどもページ数目安をはるかに超える大作を書いて提出している。
会う人会う人は口々に僕を褒めてくれた。
僕はそれが嬉しくてますます頑張るようになったし、その頑張りが実って今もそこそこの成果もあげている。
みんなは僕を一目置いてくれている。
でもそれが時々空しい気持ちにさせることがある。
どうやら僕がみんなから褒められるのはその頑張りのおかげで
つまりは僕が称賛されるのは条件付きのものではないかと思うのだ。
もし僕が勉強もできず何の芸もなく怠惰であったとしても
誰か僕を好きになってくれただろうか?と
不信感を持つのだ。
しかも(自慢みたいだし現に自慢だが)質の悪いことに
僕はこれまで常に何かしら秀でたところがあったので
(感じ悪いよね~)
何の取り柄がない場合に人がどんな反応をするか未だかつて見たことがないのだ。
頑張り屋さんだからたくさん勉強する。
するとみんなは僕を褒めてくれる
でもそれは「僕のことを褒めている」のではなく
「勉強が出来る僕のことを褒めてくれているのでは?」と思う。
グループワークのようなものでも頑張り屋さんだからたくさん貢献しようとする。
するとみんなは褒めてくれし喜んでくれる。
でもそれは「僕のことが好き」なのではなくて
「僕がチームに対してする貢献」が好きなのでは?と思う。
それは誰だってチームメンバーが怠けていたら嫌うだろうし
頑張っている人は誰だって好きだろう。
しかし僕が頑張れば他の人の仕事が減るから
みんなは僕がもたらすその便益を好きなんじゃないかな、と思うのだ。
「自己肯定感」について文献を読むと
「自分は無条件に愛されて受け入れられるという信念を持っている」云々などと書かれているが
僕の上記のような考えを読み返してみると
やはり僕には自己肯定感が足りていないように思われる。
いくら
「勉強もできたし絵を描いたりピアノを弾いたり、なんでも出来る」
「やるべきことは頑張ってやるタイプなので、大学のレポートなどもページ数目安をはるかに超える大作を書いて提出している」
「頑張りが実って今もそこそこの成果もあげている。みんなは僕を一目置いてくれている」などと自称しても
無条件で愛される自信は持てていないらしい。
もし僕になんの取り柄もなくてもみんなは僕を好きになってくれるだろうか?
という訳で
自称何でもできるうぬぼれ屋さんが
他人を見下しコケにし贅沢な悩みと見せかけた嫌味を披露いたしました。
ご不快に思う方がいたら陳謝いたします。