人生のほとんどが遺伝や家庭環境で決まってしまう悲しい現実について

聖職者ニーバーさんの有名な祈りの言葉にこんなものがある:

 

「神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。云々」

(ニーバーの祈り、Wikipediaより引用)

 

僕はこの言葉が大好きなだ。

人生のさまざまな事柄について

「これについては悩んでも仕方ないから他の方法でやろう!」

などと合理的な決定をするのに役立っている。

 

変えられないものを変えようと足掻いても不毛だ。

だから変えられるものを変えることに注力しよう。

そんな風に僕に合理的思考を教えてくれた。

 

学力、就職、所得、結婚や恋愛、家族との関わり方などは

誰もが大きな関心事を持つだろう。

しかし

人文系の研究者さん達が研究を進めるにつれて

こうした事柄が

遺伝子、実家の所得、親の育て方、住んでいる環境によって

方向付けられてしまう事が分かってきたという。

 

おかげで「毒親」なんて概念が流行っている。

ネット上では貧乏人や毒親のもとに生まれたことを嘆く意見が

掃いて捨てるほど溢れている。

この世界には自分の力で変えられるものがほとんど残っていないようであまりに悲しい。

 

一体どうしたらいいの?

そもそも何が出来るの?

こんな現実を静穏に受け入れるなんて簡単にできるものではないね。

 

 

子供の学力を決定する最大要因は親の学歴と所得だという。

このために高学歴でお金持ちな両親の子は

大人になっても高学歴になる。

そして高学歴な子供はいい仕事に就き

学歴を収入に変換してまたお金持ちになる。

 

親からの遺伝子に恵まれて

美人や高身長イケメンに生まれついた人は

そうでない外見の人よりも生きてるだけで大きく得をするという。

 

学校でも先生から高めに評価される、

就職や入試の面接でも有利に働く、

人事評価でも高めに評価される、

同じような罪を犯しても裁判で軽めの処罰で済む、

当然のようにモテて恋愛も結婚も有利になる、

子供のうちは児童虐待に遭いにくい

などなど大きな違いを生む。

 

見た目は努力で磨けるけれど

遺伝が大きく影響するのは周知の通りだ。

 

田舎で生まれ育った子供は

それだけで都会に住む子供よりも

教育、文化資本、情報、ロールモデルとなる人など

さまざまな資源にアクセスすることが難しい。

彼らはスタートラインに立つ時点で不利になっているそうな。

 

また貧困家庭に育ち

自分の感情をコントロールない親や

アルコールや薬物中毒の親から虐待を受けた子供達は

自分自身も大人になって貧乏になり

同じような依存症になった上に

子供を虐待するという

貧困・虐待の連鎖なんていう現象もあるという。

 

しかし社会の勝ち組たちは冷たく自己責任論を展開するという。

「自分達は努力して実力で成功を収めてきたのだ。

貧乏人が貧乏なのは本人の努力不足だ。」

 

しかし環境がもつパワーはあまりに大きい。

 

シリアの紛争地帯に生まれ育った天才少年や少女が

貧困に苦しみながら育ち

その才能を伸ばすことも出来ないうちに

ある日突然、空爆で死んだとしよう。

しかしそれが

「彼や彼女が日本やアメリカに生まれた子供達と比べて

怠けていたからだ、それは自己責任だ」

なんてことにはならないだろう。

 

一体僕の力で変えられるものがどれだけ残っているだろうか?

そんな風に感傷的になってしまう。

 

しかしそれでも

与えられた遺伝情報や育ってきた環境を受け入れよう。

今の自分ならば変えられる。

 

なぜかは知らないけれど

僕なら未来をどうとでも出来るという自信がある。

まあ何とかなるでしょって思ってる。

 

変えられる部分がどれだけ少なくても

可能性があったらやってみようと思う。

 

実際やってみて失敗するリスクはあると思う。

投資した時間も労力も無駄になることはあると思う。

でもそれは投資だから当然リスク覚悟でやるものだと思ってる。

保証なんてなくても恐怖心と戦いながらやるものだと思ってる。

 

実際僕はこれまでいろんなことをやってきたし

いろんなことを達成できた。

結構どうにかなるものだと身をもって経験したから

これからも実際どうにかなると思ってる。

 

僕は今日も明日も

絶望とうまく付き合いながら生きてくつもりだ。

Handmade Curry Hell.

Recently, I made curry by myself. I bought some ingredients in a supermarket nearby my home.

This is my first experience to make curry from ingredients.

I cut some ingredients including onions, potatoes, eggplants, pumpkins, and beef.

However, when I fried them, I realized that the ingredients were too much for just for me.

There was a pot full of ingredients, and it could not be held by my pot.

I changed my pot to a larger one and continued to cook curry.

When I started to cool this curry, I just intended to cool curry just for the supper or for the supper and lunch of the next day.

However, I ended up with making curry for ten portions.

 

Finally, the curry was ready.

That was so delicious, and I was so happy because my curry was far delicious than instant curries I had used to eat.

I blessed myself for I thought that I was a genius in cooking.

(It was just curry with a curry stock on the market)  

 

Market Curry stocks are great because those make us feel like we are good at making curry.

 

However, it was a start of a “hell”.

The next morning, the breakfast was curry.

Lunch on the day was also curry.

Dinner on the day was also curry.

I had fallen into a curry hell.

 

The day after next, breakfast was curry.

on the same day, lunch was also curry.

I finally finished to eat all curry.

(I eat up that curry with 5 times, I seem to be eating curry for two each meal.)

 

What? You made curry too much and had to continue to eat curry every meal?

It a common story.

So many people love curry and so many people have made the same mistake as this in the human history, and I was not an exception.

I also made the same mistake.

 

But, it’s okay.

I do not need to be a special person.

Curry is also delicious for me and I will make same mistakes as others.

It’s okay, I will have both some special features and other various common features with other people.

It’s quite natural.

 

When I make curry next time, I will be careful on how much ingredients should I buy.

芸術と経済、社会、技術的な要因の関わりについて話

芸術家が創造性を発揮して作った芸術作品は人々を感動させてくれる。

天才たちの作品は凡人には思いつかないようなことを実現している。

 

ところで僕は芸術作品は天才たちが独力で自由に生み出せるものではないと思っている。

芸術作品はそれらが作られることや、その内容も社会的要因に大きく影響を受けてしまうものだと思うのだ。

 

 

 

日本が世界に誇る陶器である伊万里焼は圧倒的な美しさと技術の高度さを持つ。

そして江戸時代の伊万里焼作品の多くが、現在ヨーロッパの宮殿に飾られている。

そうした作品たちは世界的に高く評価され高値で取引される。

 

しかしこうした伊万里焼も陶芸家が自分たちの才能と努力だけで築いたものではない。

 

時代をだいぶ遡って場所もだいぶ移動し大航海時代のヨーロッパの話をしよう。

オランダのオランダ東インド会社が香辛料などの貿易を行うために設立され

これはまた世界で初めての株式会社としても知られている。

 

オランダ東インド会社は新大陸や南洋諸島、アフリカ大陸、インド、アジアの様々な国の間で貿易活動を行い

ヨーロッパに莫大な富をもたらして当時の世界で大きな影響力を持った。

それ以前は世界の富はムガル帝国中華帝国などに集中しており

ヨーロッパなどは世界の辺境の貧しくみすぼらしい地域に過ぎなかった。

しかし大航海時代以降

ヨーロッパは世界中と金銀、香辛料、奴隷、サトウキビなどの交易を行うことにより

徐々に経済力を高めていった。

ヨーロッパの王侯貴族も徐々に当時の世界水準に照らしても豊かになっていった。

 

さてオランダ東インド会社は中国とも貿易をしており

中国からヨーロッパへ絹織物や陶磁器、茶葉などを輸入していた。

景徳鎮の陶器はヨーロッパの王侯貴族の間で大変な人気を博し

景徳鎮の製品は大量にヨーロッパに輸入されていた。

 

ところが明王朝も末期に入ると中国国内は混乱し

景徳鎮の磁器生産も打撃を受けた。

また清王朝海禁政策により景徳鎮の磁器は一切輸入できなくなった。

 

しかし磁気への需要は依然として高く

オランダ東インド会社は景徳鎮の代替産地、代替品として日本の磁器に目を付けた。

伊万里焼はこうしてヨーロッパの磁器需要を景徳鎮に変わって満たすこととなった。

これまでの景徳鎮の磁器に変わって日本製の伊万里焼が大量に作られヨーロッパに輸出されることとなった。

ヨーロッパマネーに支えられて伊万里焼の産地は潤い、陶工たちは収入を得て

伊万里焼産業は大きく発展することとなった。

 

伊万里焼の開花は

大航海時代の貿易活動、ヨーロッパの経済発展、中国での動乱、などのさまざまな背景を持って生じた現象だったのだ。

 

また、この頃ヨーロッパの各地では

磁器を自国で生産できれば多くの利益が得られるとの計算の下

自国で陶器を生産しようという動きがあり

王や貴族がこぞって資金提供を行い

多くの陶工や錬金術師が駆り出され

国産磁器を開発する競争が繰り広げられた。

(当時のヨーロッパではまだ磁器を生産する技術がなく製法も不明だった)

そうした活動の成果としてマイセンやセーブルなどのヨーロッパ磁気も誕生したのだ。

 

 

 

印象派絵画の誕生には3つの技術革新が関係しているという。

 

かつてのヨーロッパでは、油絵具は岩石を粉砕したものを使用していた。

原料となる鉱石を十分に砕いて絵具として使えるようになるまで

画家は乳鉢を使って丹念に鉱石をすりつぶし、油で溶いて使っていた。

そうした画材は持ち運びが困難であり

画家が絵を描く際にはアトリエに籠りきりになっていた。

 

しかし十九世紀になるとチューブ入り絵具が開発されて絵具に革命が起きた。

チューブ入り絵具は持ち運びに便利だったため

画家たちは早速チューブ入り絵具を持って屋外へ出るようになった。

 

こうした技術革新のおかげで

多くの画家が明るい日差しのもと屋外にキャンバスを立てて絵を描けるようになった。

時々刻々と、また季節の移ろいとともに変わる風景を表現しようと腕を振るった。

現在印象派と呼ばれる人たちである。

 

また、この頃には写真も実用化されていた。

従来のヨーロッパ絵画では遠近法や人物の描き方など写実的な表現を発達させてきた。

また画家の主要な収入源は肖像画の制作であった。

しかし記録するだけなら写真の方が圧倒的に優れているし安価であった。

写真は画家たちから多くの仕事を奪っていった。

そんな状況下で画家たちは本物そっくりに描く以上のことを絵画において行い

写真と差別化する必要があった。

印象派の画家たちはそうした中で描く対象が「ある通り」ではなく

自分たちが「感じた通り」に描く表現を生み出した。

印象派の表現はそれまでの絵画の正統からは大きく外れており

実際当時の美術アカデミーからは酷評されていた。

印象派」という言葉はモネが受けた酷評を彼らが気に入りそこから命名されたという。

 

当時は敷かれたばかりの蒸気機関車も重要な役割を果たしていたという。

画家たちは絵になる景色を求めて各地を旅したが

蒸気機関車は従来の馬車や徒歩よりも

はるかに速く遠くの田舎の景色がいい所へ移動することを可能にした。

画家たちは蒸気機関車に乗ってパリから日帰りで田舎町へ行き絵を描いて帰って来ることができた。

 

印象派の誕生の背景にはチューブ入り絵具の発明、写真機の台頭、蒸気機関車の敷設という技術的背景があったそうだ。

 

 

 

清王朝乾隆帝は即位して以降

領土拡大戦争に明け暮れ、結果として中国の領土を史上最大にまで広げた。

中国に貢物を送る周辺国も増え、経済力は大幅に高まった。

こうした経済力を背景として乾隆帝は多くの文化事業を行った。

四庫全書の編纂、宮廷画家制度の整備、陶磁器の生産(ケバいから個人的には好きじゃないけど)、自らの美術趣味を満たすために多くの文物の制作、などが行われた。

それらは現在の故宮博物院のコレクションとなっており、中国美術に与えた影響は多大である。

しかしそれらの優れた作品も広大な領土からの収入や乾隆帝個人の趣味に支えられたものであった。

 

乾隆帝の治世に芸術が開花したのには領土拡大による経済力や皇帝の趣味という背景があったのだ。

 

 

 

日本の平安時代には時の天皇や貴族たちにより雅な文化が築かれた。

源氏物語枕草子、和歌などの文学が栄え

天皇や貴族は来世での幸福を願いきらびやかな寺院や仏像、写経などが作られ

そうした文化財は現在も残っている。

源氏物語の作中では光源氏が多くの女性と関係を持っているが

そうした内容は当時の貴族の間で行われていた一夫多妻制やそれに伴う男女の苦悩など

当時の貴族文化や貴族たちの考えかたに基づいている。

 

他方、その次の時代・鎌倉時代には武家が政権を取り、社会の中心は貴族ではなく武士に変わった。

武士は常に戦場で死と隣り合わせの生活をしており

武士たちにとっては来世での幸福や無事に成仏することは重大な関心事でった。

そのため武士たちは多くが禅などの仏教宗派に帰依し

芸術作品にも禅の思想が繁栄されることとなった。

寺院建築や仏像など直接禅に関わる作品の制作が増加したのは明らかだが

墨の黒一色で描き余白を重んじる水墨画なども日本に伝わった。

また、この時代には中国の禅僧が茶道を日本にもたらし

後に室町時代に開花する茶道の原型も徐々に形成されていくなど

禅の思想は鎌倉時代の文化芸術に大きく影響している。

また、運慶と快慶作の金剛力士像などの表現に見るように

この時代には非常に男性的で力強い作品が生み出されているし

刀剣や武具など武士や戦いに直接かかわる作品などが多く作られている。

 

こうした変化を見るとその時代独特の作風には

誰がその時代を支配していたか、彼らの持つ文化や思想が大きく影響していることが分かる。

 

 

 

ラファエロの絵は優美で完成度が高く多くの人の好むところだろう。

ところでヨーロッパ美術にはキリスト教関連の作品が圧倒的に多い。

あなたは「ラファエロが描いた千手観音像」など見たことがあるだろうか?

たぶんないだろう、実在しないのだから。

でも日本にはいろいろな仏を描いた仏教絵画が沢山あるがヨーロッパにはあまりないし

ヨーロッパにはキリスト教絵画が沢山あるが日本にはあまりないのは

一体どうしてだろうか?

まあそれは周知のとおりヨーロッパの国々がキリスト教国で日本が仏教の国だからなのだが

ラファエロが優しく微笑む観音様ではなく

優しく微笑む聖母マリア様を多く描いたのも

彼が住んでいたのがキリスト教社会だからなのだが

ラファエロのような偉大な画家もテーマ選びがそもそも「自分が属する社会がどんな社会か」によって縛られているのだ。

ヨーロッパでは美術品の主要な注文主はキリスト教教会であった。

教会は画家に祭壇を飾る絵画や聖書の一場面を描く作品を芸術家に依頼した。

ヨハン・セバスティアン・バッハのオルガン曲も礼拝のために書かれたものだ。

バッハが観世音菩薩ではなく聖母マリアをたたえる曲を書いたのも

彼がキリスト教社会にいたからなのだ。

 

他方、仏教社会の日本では時の天皇や貴族や武士など各時代の支配階級の下にあって

様々に細かな違いを生みながらも仏教美術作品が作られたが

一部のキリシタンによる作品を除き

キリスト教美術は花開かず、代わりに仏教美術が花開いていた。

それも日本が仏教社会だったからだ。

 

こうした例からも作品の内容選びにまで社会的要因が関わっていることが分かる。

 

 

 

新聞に小説を連載し後に本として売り出すという小説の販売戦略は

フランスのバルザック、日本の夏目漱石、イギリスのチャールズ・ディケンズコナン・ドイルなど多くの作家が活躍するうえで重要な役割を担った。

そもそも19世紀末から20世紀初頭にかけてこうした新聞小説

新聞という商品の誕生と普及、資本主義のある程度の成熟による中流階級の形成、大衆の識字率の向上、印刷技術の進歩など多くの経済社会的要因に支えられた。

対象となる読者がいなければ新聞小説が商売として成り立たないし

マーケットが存在してもその人たちが字を読めなかったらやはり成り立たないし

仮に市場が準備万端でも印刷技術が大量の新聞を

毎日毎日高速で印刷できる技術レベルに達していなければ技術的に実現できない。

 

いくら彼らに才能があったとしても、彼らが活躍するためには

資本主義の成熟、経済社会水準の向上による教育の普及、印刷技術の進歩

などの条件が揃っている必要があったのだ。

夏目漱石朝日新聞社で働き作品を連載したことは有名な話だが

それだって朝日新聞の社長さんが文芸振興のために私財を寄付した、などではなく

そうすることが利益になり、企業経営上可能だったから出来たことだ。

 

 

 

そもそもしょっちゅう爆弾が降り注いでくるような社会や

今日の食事にも困る貧乏な社会では

おちおち芸術作品なんて作っていられないから

創作活動を行うためにはある程度平和で豊かな社会的基盤が必要だ。

 

お腹を空かせた孤高の芸術家も

あまり現金収入がない期間が続いたら餓死してしまうだろうから

作品が売れるとか、お金持ちがパトロンになってくれるとか

なんらかの形で経済的なバックボーンが必要だ。

(そしてパトロンの財力も政治とか経済的な要因の結果だ)

作品が売れるとか売れないとかも

時代ごとの市場の趣味とか経済状態によって変動するだろう。

 

 

こうした事例やもろもろを考えると

芸術も社会的な産物なのだと思う。

ひとりの天才が自由にかつ独自に生み出したもはでもなさそうだ。

かといって全てがことごとく社会的要因に縛られているわけでもないだろう。

例えば今、適当にペンを持って絵を描いたり詩を書いたりしても

あなたが今描いたものが社会的要因によって詳細に決まっていた

なんてことはないはずだ。

 

また多くの天才たちが時代の産物だからと言って

彼らが凄くないことにもならないだろう。

多くの人は時代に乗れず、チャンスも掴めず漫然と退屈な人生を送って

「あの時○○していたら」なんて恨み言をこぼすなどよくある話である。

偉大な芸術家たちはそれぞれの時代にあって多大な努力をしたし

時代の流れを掴み、チャンスを物にした。

権力者からの注文を勝ち取り、賢明に仕事をしただろう。

しかし彼らは常に時代のうねりの上に乗っかっていたのだ。

 

彼らが時代の流れにうまく乗り、掴めるチャンスを掴み

あのような業績を残したことは十分偉大なことなのだ。

そんじょそこらの人にチューブ入り絵具を渡して

ルノワールみたいな絵を描いてみろ」と言っても到底描けないだろうし

第一、ルノワールやモネの凄い所は「新しい絵画を作った」ことなのだ。

「2番目以降の人」と「1番最初の人」では天と地ほどの差があるのだ。

 

 

僕は構造主義的な考え方が大好きなので

個人を構造に閉じ込めるだけじゃなく

芸術もこうした社会的要因の中に閉じ込められている、と考えるのが好きなのだ。

 

 

社会的要因は個人にも一芸術家にも変えられないだろうが

変えられない物は仕方がないので

変えられることに注力しよう。

 

時代の流れを見極めること、

上手く時代の流れに乗ること、

最新技術を活用すること、

権力者の支持を得ること、

経済状態のいい国や地域へ行くこと、

他人のピンチは自分のチャンス、

そして取りあえずカネ・カネ・カネ!!

 

 

有名な祈りの言葉にこんなものがある

 

「神よわたしに

変えられない物を受け入れる冷静さと

変えられるものを変える勇気と

そしてそれらの物を区別する知恵を

与えてください」

(二ーバーの祈り)

 これも全部コロナのせいだ!!!ーー新型コロナウイルスのせいで中国留学を断念した話ーー

 

僕はかねてから大学の留学をつかさどる部署の方から留学を勧められていたのだが

ついにもうすぐ四年生になる直前の三年後期のタイミングで長期留学する決意を固め

申請書類を書き上げて長期留学に応募した。

僕は中国の大学へ留学することにした。

 

僕は大学で中国語を勉強している。

と言っても実は僕は理系学生であり、中国語は本来卒業には全く必要ないのだが

趣味で中国語の勉強をしているのだ。

中国は今や世界第二の経済大国であり国際的な影響力も大きく

日本国内でも中国語の需要は大きい。

そんな中で僕のように理系で高い専門性を持ち、なおかつ中国語が出来る人材なら

きっと市場価値が高まると思い、中国語を勉強しているのだ。

といっても僕は大学教授になるつもりで民間企業に就職するつもりなどさらさらないのだが

中国は今後、科学研究の分野でも影響力を増していくから

中国の研究者と共同研究をする機会もあるだろうし

日本の大学には中国から多くの留学生が来るのだから

様々な事務や留学生指導においても中国語が堪能な先生がいたら重宝されるはずだから

研究者になるとしても役に立つだろうし、お金にもなると思うのである。

 

そう、僕はお金を儲けたいから計算ずくで中国語を勉強しているのである。

 

僕の留学希望校は中国のS大学で、そこは中国でもトップ3位に入るような名門校である。

中国のトップ校は日本の大学とは比べ物にならないほどレベルが高く

学生のモチベーションも格段に違うという。

またその大学は国家重点大学に選ばれており

中国国内での地位も高く、国家から多大な期待をされており予算も多く注がれている。

僕はそんな環境で学べる事ならびに中国語を訓練する機会を得られること

そして中国のトップ校で学んでいたという経歴を作れること

将来中国社会を背負って立つ人たちと少なからずコネクションを作れることを楽しみにしていた。

 

僕は授業の成績や英語の実力は十分あったし

S大学への応募者が少ないので

あとは書類を出すだけで留学できるはずであった。

 

しかしいざ書類を出す段階になって

新たな条件として中国語の語学試験のスコアを提出することを求められた。

HSKという中国語の試験で上から2番目である5級を取ることを求められたのだ。

 

これは寝耳に水であった。

なぜなら大学が配っていた資料にはそんなことは記載されていなかったからだ。

これには驚いた。

何しろ申し込みは年末頃であり

数か月後には中国政府の公式試験で上から2番目の級をとってスコアを提出しろ

と突然言われたのだから。

しかしそれ以外の条件は完璧に満たしており

他に応募者もいないため

職員さんもあとはスコアだけ出せば留学できる、と言ってくれた。

残る課題は中国語試験のスコアだけであった。

 

僕は「スコアを取ります。取って留学します。」と高らかに宣言し

HSK5級のために猛勉強を始めた。

参考書を買い問題を解き単語を覚え作文の練習もし

スマホアプリも駆使しながら中国語を勉強した。

本業である理系の科目の傍ら

大学の中国語の授業にも熱心に取り組んだ。

中央電視台のサイトで中国語のニュースやドラマを見て

ネイティブの発音に耳を慣らし中国文化のようなものにも触れた。

 

さて僕は現在石川県に住んでいるのだが

HSKはマイナー資格なので受験地が結構限られている。

そして申し込みに間に合うタイミングでHSKを受けられるのは一月だけで

その時一番便利な会場は東京会場だけであった。

そう、僕はわざわざHSKを受けるためだけに東京へ行く羽目になったのだ。

 

僕は冬休みの間も白馬のゲレンデでスノボをする傍ら

中国語の勉強に励み試験に備えた。

この頃から少しづつコロナウイルスの話題がテレビやネット記事で取り上げられ始めた。

 

そして運命の受験日、一月某日に僕は交通費数千円を費やして東京へ行った。

夜行バスの中で僕は一睡もできず

当日は寝不足の状態で試験を受けることとなった。

試験を受けた手ごたえはあった。

特に焦ることもなく緊張することもなくスムーズに一通りの問題を解き終えた。

この時の妙に落ち着いた気持ちには覚えがあった。

この大学を受験した時の試験、好成績で単位を貰った試験など

上手くいった試験のあの感覚だった。

僕は「後はどうにでもなれ」とすっきりした気持ちで会場を後にした。

この時の感覚はあとでいいことが起こるときの感覚だった。

 

僕はこの日の夕方は東京都内皇居周辺を少し散策し

そのあと埼玉に住む友人宅に泊めてもらった。

友人宅では彼のお母さんが作ってくれたカレーを食べたりした。

最後に一緒にスノボしたときの話しや別の友達のことや好きな音楽の話などをした。

翌朝テレビの報道番組を見ながら昨日のカレーの続きを食べていると

コロナウイルス問題が取り上げられていた。

この頃にはコロナウイルスの感染も拡大しており

武漢は大変なことになっていた。

実はその前の年のゴールデンウイークに

僕は一週間ほど中国に滞在していたので友達は僕がコロナウイルスを貰ってきていないか?などと冗談を言っていた。

僕は「まだ感染が始まるずっと前だから大丈夫だよ」などと返事していたが

この時にはコロナウイルス問題は僕たちにとっては全く遠い世界の出来事であり

冗談にできるような話題でしかなかった。

 

僕は留学関係の部署の職員さんに

「結果がネット上で発表されるのは通常よりも遅く一か月と一週間先になり

紙のスコアが手に入るのはさらにもう一か月先になります」と連絡した。

というのもその頃はちょうど中国の春節休みに当たるため

中国のお役所もHSKの本部も長期休みに入るため通常よりも一週間遅くなるらしかったのだ。

僕は紙のスコアが必要なときに手に入るか心配だったが

職員の方がギリギリで間に合いそうだと仰っていたので安心した。

この時期に受験したのが良くなかった

春節休みは中国にとっては大事なことだから

スコア発表が遅くなるのも仕方がない

まあ間に合うのならいいじゃないか、ととりあえずホッとして

あとはゆったり結果発表を待つだけだった。

この時にはスコアのオンライン発表や紙スコアの発送が遅れる原因は

毎年毎年必ず中国に訪れる春節だけだと思っていた。

それ以外に何かが起こるとは思っていなかった。

それから「中国のお役所はいい加減そうだから

もしかしたら宣言した期日に遅れてくるかも知れない」なんてことすら考えていた。

あの時の僕はなんておめでたかったのだろう?

スコアが遅れてくる原因が他にあるとは全く想定していなかった。

 

この間も中国ではコロナウイルスの感染が拡大し続けており

僕もいよいよ事の重大性に気が付いた。

中国に対して出入国の規制が始まったりしていた。

僕が行くはずの中国は大変なことになっている

僕は中国留学出来るのであろうか?

とても不安になった。

 

書類を出した後には面接試験があった。

この面接では中国語の質問に中国語で答えることになっていた。

職員の方にあらかじめ聞いた話では

その大学を選んだ理由や行った先で何をしたいかなどを質問されるとのことだった。

僕は面接で聞かれそうなことを色々予測して答えを用意しておいた。

中国時事ネタとしてコロナウイルスのことも聞かれると思い

コロナウイルスの中国語表記や発音なども調べ

コロナウイルス問題についてどう考えるかを作文して暗記していった。

どんな聞かれ方をしても整合性が取れるよう言い出し方や語尾を工夫して

作文して暗記していった。

"我认为冠状病毒的情况非常严重。我只是希望在我去中国之前解决冠状病毒的问题。"

「私はコロナウイルスの問題は非常に深刻だと思います。私はただ、私が中国に行く前にコロナウイルス問題が解決されていることを望むだけです。」

こんな意味のつもりの中国語作文をひっさげて面接に臨んだ。

中国語でコロナウイルスは"冠状病毒"と書くのだ。

面接で答える内容を作るためにコロナウイルスの問題について

中央電視台のニュースや日本のニュースなどを見て最新の情報を調べたら

ようやく僕も事の重大さに気がついた。

コロナウイルス問題はもはや対岸の火事などではなかった。

 

3年後期が終わってすぐの二月某日に、ついに面接が行われた。

面接では型どおりに中国語で名前や学年を聞かれるところから始まり

何故この大学を選んだのかこの大学で何をしたいのかを聞かれた。

僕は中国語でS大学が中国のトップ校であり

そこの固体物理学系の学部は国家重点科目に選ばれており

その環境と教育内容に期待できること、などを答えた。

 

そして中国語の教授でもある中国人の先生は型どおりの質問を終えた後

一呼吸置いてからこんな質問をした。

日本語で書くと

「あなたが留学したい中国はいまこんな大変な状況ですが、そのことについてどう思いますか?」

こんな質問だった。

「こんな状況」とはもちろんコロナウイルス問題を指している。

僕は準備しておいたあの「冠状病毒」の作文を唱えた。

準備しておいて良かった。

僕は多少つっかえながらも例の「祈るだけです」の作文を唱えた。

 

きっと普通ならこんな事柄まで調べて用意してあることに関して

クリティカルポイントが与えられただろう。

「冠状病毒」なんて単語を知っていた事

それをちゃんと発音出来ることに「さすが!」と声が上がったことであろう。

僕のように意欲的で積極的に学修できて知識も豊富で作文スキルもあり

入念に準備をしその場で機転を働かせた、かのようにファインプレーを決められる学生なら

大学側も喜んで留学させてくれるだろう。

しかし先生方は残念そうに、しかし僕を励ますように言った。

 

「中国は今、大変な状況になっていて留学できる状態ではありません。

今はまだその時ではないんだと思います。

自分一人が僕は大丈夫だ、と言って留学できるものでもありません。

S大学もこんな状況で受け入れられるか分かりません。

留学が始まるのは9月からですが

その頃にコロナウイルスのことがどうなっているかも分かりません。

今はその時じゃないんだと思います。」

こんな感じだった。

僕は多少覚悟していたので、ようやく何かが片付いた時の安堵感を覚えた。

先生は僕ががっかりしていると想定してか、さらに励ましの言葉をくれた。

 

「中国語ユーザーは世界中に十数億人もいます。

中国以外にも世界中にいて中国語を使う機会はあります。

だからあなたが勉強した中国語は決して無駄にはなりません。

これから勉強していく上でも

大学の中でも将来仕事に就いてからでも

中国語はきっと役に立ってくれると思います。

今年留学しなくてもまた留学するチャンスはたくさんあります。

どうが気を落とさないでください」

そんな感じだった。

しかしまだ留学できないと決まった訳ではないので

とりあえず書類はそのまま通すとの事だった。

 

先生方は中国の大学の代わりに

特別措置として他の国への留学を勧めてくれた。

普通なら応募期間をとうに過ぎていたためもう他の大学へは応募出来ないのだが

特別に今からでも他の大学へ変更していい、と言ってくれた。

先生や職員さんはアメリカやオーストラリアの大学はどうか?と言った。

そのためには今持っているのよりあと一段階高い英語スコアが必要だったのだが

それは四月か五月に用意出来ればいいそうで

春休みの間にめちゃくちゃ頑張って取りなさい、との事であった。

僕はオーストラリアの某国立大学がいいな、と思ったが

春休みには大学のプログラムに参加して一ヶ月ほどチェコ共和国に行くことになっていたので

春休みを英語の勉強に使うのにはためらいがあった。

そんな事よりもチェコを満喫し

チェコでしか出来ない経験をしようと思っていたからだ。

英語の学習なんて日本でもどこでも出来る。

参考書ならどこでも開けるし、オンライン学習もどこでも出来る。

しかしプラハ城やカレル橋はチェコにしかないのだから

そちらの方がよほど貴重なのである。

僕は別の留学先を決めかねており

後日連絡する旨伝えて面接会場のある建物を後にした。

 

チェコ共和国に留学する直前には日本でコロナウイルスの感染が拡大し始めていた。

患者数の増加が日々ニュースなどで取り上げられていた。

この頃、友達に会った時には「日本でコロナが流行っているからチェコに避難?」などと友達から冗談を言われたりした。

「別にそういう訳じゃないよ」と僕は返したが

この時もまだまだコロナウイルスは僕には直接関わりのない出来事だと思っていた。

 

 

そして僕はチェコに飛び立った。

 

 

チェコでもコロナウイルスのせいで大騒動が起こるのだが

それはまた別の記事に書くことにする。

 

その頃のチェコでは感染者は一人も確認されておらず

最初の頃、コロナウイルスはますます遠い世界の話のように感じられていた。

しかしチェコ滞在中にも中国や日本、韓国で感染が拡大し始めて

ヨーロッパにも少しづつコロナウイルスが侵入し始めていた。

コロナウイルス問題のせいで世界中に暗雲が立ちこめ始めていた。

「今年の9月頃にはどうなっているんだろう?」

 

さてチェコに滞在して二週間ほどたってからHSK5級の結果が

オンライン発表される日が来た。

結果は300点満点中200点強で合格ラインである6割を超える点を稼いだ。

晴れて僕は成績条件も語学力条件すべて満たした。

あとはそのまま書類は審査を素通りしてS大学へ行ける…予定であった。

HSKのホームページにはこんな事が書いてあった。

コロナウイルス問題のために紙のスコアの発送が予定よりもさらに遅れます云々。

紙のスコアが届くのはいつのことになるのだろうか?

 

 

 

僕はチェコから留学関係の職員さんにHSK試験の結果を伝えるメールを書いて送った。

そしてそのメールの中で、留学を取りやめる旨を一緒に伝えた。

 

 

 

僕が留学するとなると4年生なので通常なら卒業するか大学院へ進むのであろう。

僕は大学院へ進むつもりなのだが、それにだって院試の準備が必要である。

それを僕は四年生の途中で中国へ一年間留学し

帰ってきてからまた四年生になって

卒業研究の続きと院試をやろうとしていたのである。

 

しかしこんな不確実な状況で

紙のスコアが必要な時に届くかも分からない

S大学が留学生を受け入れられるかも分からない

9月にどうなっているか分からない

その時に中国への出入国が出来るかも分からない

飛行機が飛んでいるかも分からない

留学の途中で帰国命令が出るかも分からない、では

甚だしく心許なかったのだ。

9月まで留学の準備をすべきか?院試の準備をすべきか?

もし留学出来るつもりで準備していたのに

留学出来なかったら、院試とかその後のことをどうしたらいいのか?

皆目見当も付かなかった。

はっきりさせたかった。

そんな中で僕が唯一持っていた、コトをはっきりさせる方法は

留学しないと決意することだった。

そうすれば僕がやることは院試の準備だけになるから。

 

思えば大学入学当初から留学はしたいと思っていたので

これは苦渋の決断だった。

しかし院に進んでからもチャンスはある

そんな希望があったから、今年度は留学しないことを決断できた。

僕は十分なスコアが取れた事とともに上記のような考えで留学を取りやめる旨

メールに書いて送った。

スコアが発表されてからこれを伝えたのは

スコアが取れなくて、あるいは取れるかどうか心配で

勝負から逃げるみたいにしたくなかったからだ。

何の勝負かは知らないが、

どんなスコアの内容であれスコアが出てから辞退したかったのだ。

 

職員さんは二日ほどしてから僕のメールに返信してくれた。

曰く、僕の進路と今の状況を考えたら賢明な判断だ、との事だった。

ただし、こちらの大学の先生方や

S大学の多くの先生方のご協力があったことは

決して忘れないでください、との事だった。

僕は職員さんが理解してくれたことに感謝し

多くの先生方のご協力があったことは決して忘れず感謝しますと

そのメールに返信した。

さらに僕は推薦状を書いてくださった先生などに宛てて

留学を取りやめたことを伝えるお詫びメールを書いて送った。

 

こうして僕は長期留学することなく大学を卒業することとなった。

 

 

 

 

これも全部コロナのせいだ!!!

 

 

 

僕の手元にはHSK5級だけが残った(3/20現在、紙のスコアはまだ届いてない)。

HSK5級を持っていると就職で有利になるという。

僕の手元には毎月ちょっぴり多めの給与所得を産む金券があるようなものなのだろう

か?

(終)

 

Memories in a ski resort in Hakuba, Nagano.

When I arrived into Hakuba village in Nagano, there was no snow at all. I was worried that I could not do snowboarding though I came to there. On the first few days in Hakuba, it was so. I just stayed in the dormitory and what I could do for snowboarding was just pray for snowfall. Thanks to the effect of my pray, it began to snow soon. In Hakuba, I also made some new friends. One is Nagoya university, one is Meiji university, one is Osaka university and so on, like this. We did snowboarding or skiing together and went to a darts bar nearby the ski resort. I did snowboarding just four days during my stay in Hakuba. My snowboarding skill was improved. A day that the effect of my pray reached at the sky, excellent powder snow newly covered the slopes. I went to the ski resort early morning. And slide down the slop. I was in the first people who did snowboarding on the powder snow. There was about 50 cm snow. It wasn't pressed. I can't express the feeling how comfortable and joyful that was. Do you want to know the feeling? Let's go to snowboarding together in the next season!!

Review for the third grade in the university.

My third grade days and months were rapidly passed by. Until recently, I thought that I just had entered this university right now. But, when I realized where I was and when was that, my graduation from the university was closer to that time than the entrance to the university. Majority part of the university life was already finished. Before I entered this university, I imagined that I would study hard and mastered the subjects and deepen the knowledge in various fields. I also thought I would be like a monk in medieval Europe. I would live in the library and read a pile of books so that I could be like an Aristotle. What a childish fancy that was!! Was I so much ignorant? Surely, I know various things that I didn't know before I enter the university. I can do a lot of things that I couldn't before I entered this university. But, it's not enough fee me. I could be better, I can't help to think so. Even if there is no "if" in the past or history, but I can't help to think about the past possibilities that I myself throw away. I had a lot of precious experiences and improved in some aspects. But, I think I could be better.

The reason why I need to read through whole a book.

Recently, when I study something, I am increasingly depending on website. I can get necessary information by searching for websites. However, these pieces of information are a kind of fragments of large system. As I satisfy my necessities by such information fragments, I feel that my brain becomes messy and I am wondering in a large labyrinth. Before I was addicted to such a easy style, I had read books from the first page (including the author and the publisher information) and the appendix. A how to book for reading books said that we did not need to read all pages of the books, but we just need to pick our necessary pages up and to read just them. If we read all pages of the books, it will require infinite time and labor, and it cannot be economic way, like this. Of course, it will be true and a better practice. But, my current custom is too bad to get knowledge. Originally, the quality of information on the internet is not guaranteed by anybody. And what we understand something is not gathering fragments of something, but collect ing them, connecting them with logical relationships, and making a hierarchical
structure. Traditional paper books are produced satisfying such needs originally. Due to my recent practice, my understanding for my university study is too shallow and confused because there are just scattered fragments of information and there is no logical connections among them. Yes, the reason why I can't follow my university lectures is not because of my ability or intelligence, but due to my current practice...